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2004年10月27日 (水)

美しい夏キリシマ

黒木和雄監督の「美しい夏キリシマ」を観た。とは言うものの、映画館ではない。たまたまTSUTAYAに足を運んで、このDVDが目に留まったのである。1週間のレンタル料を支払い、早速鑑賞することにした。

この映画は私が見過してしまったものでもある。なにせ鹿児島での上映期間が短かったもので、あれよあれよと言う内に、行きそびれてしまった。黒木監督の出身地、宮崎県のえびの市が舞台ということもあって、親近感は持っていた。大きなくくりで言えば、鹿児島弁も、えびの市や都城市周辺の言葉も、薩摩弁の範疇であるので、わが故郷の言葉であると言い切っても、お叱りを受けることはないであろう。ただそのため、それほど映画の内容に着目していなかったことが、かえって災いとなったのかもしれない。

映画の冒頭で、鍼灸師に扮する野呂圭介が登場する。野呂と言えば、「元祖どっきりカメラ」のあのヘルメットを被った妙なレポーター役と説明した方が分かりやすいのかもしれない。彼は言わずと知れた、鹿児島弁のネイティブスピーカーなのである。したがって、コテコテの純粋鹿児島弁、いや薩摩弁を彼に見事に披露されたのでは、後々に影響があるのではないかと危惧したのだが、遠からず当たってしまったような気もする。

あらかじめ私はこの映画の公式サイトのBBSで、様々な方の感想を読んでいたので、あまり大きな期待を抱かずに鑑賞するつもりだったが、杞憂であった。この映画は当時少年であった黒木監督の目を通して、着色を極力抑えた、極めてドキュメンタリーに近いフィクションであると私は受け止めた。劇中、耶蘇の肖像画を飾る主人公、未亡人とねんごろになる駐留兵士、人妻に恋心を抱く特攻兵等々、従来の戦争映画では扱うことのなかったテーマを提示することによって、我々戦争未体験者が抱く白黒フィルムによる悲惨一辺倒の観念化された戦争が、総天然色の極めて人間臭いものとなっていることに驚愕する。

映画は戦争終期の広島への原爆投下から昭和天皇の玉音放送による戦争終了にいたるまでを追っているため、士気を失い、食料品の略奪に走る兵士、あるいは駐留兵と未亡人との間の生々しい性描写などは、この時期の極限まで追いつめられた人々が表現する「生」への執着であり、観念化されたものではなく、血の通った人間が必死に命をつないでいた現実として理解できる。

公式ホームページのBBSに「あの性描写にはがっかりした。あれがなければ子供達にも鑑賞を薦めるのに」という記載があったが、私はそれは違うと思う。黒木監督は映画を通して戦争の現実を伝えたかったのは事実であろうが、自ら規範的な立場から、この映画を制作したのではない筈だ。極力個人的な価値感を押さえて、「生」の事実の再現に徹したのではないだろうか。教育的立場などというものではなく、「かつて日本人が味わった敗北と言う重い歴史をそのまま受け取ってください」ということだろう。それにしても映画で登場する天然色の霧島の風景の何と清々しいことか。焼夷弾降り注ぐ都市の陰惨な地獄絵があった一方で、ほとんどの田舎では戦時中ものどかな風景が存在していたのかな、などと妙に納得してしまう。

野呂圭介を除いて、主なキャストはほとんど東京などの他府県の出身者であるが、「ナツ」役の小田エリカの薩摩弁はとても自然に私の耳に届いた。彼女は沖縄の出身であるそうだが、それを知って、なるほどなと感じた。沖縄の言葉のイントネーションはとても薩摩弁に近いのである。

映画のエンディングで、それまで厭世的に戦争の非現実性を唱え続けていた主人公の康夫が、竹槍を持って進駐軍目掛けて突進するシーンがあった。米兵達はまさに滑稽な子供の戯れと感じてか、まともに相手にしない。それでも執拗に食い下がる主人公。そのとき米兵が威嚇のためか、あるいはからかうつもりなのか、空砲を一発発射してTHE ENDとなる。このシーンは米兵達と康夫の遭遇が「子供と大人の喧嘩」に過ぎないと表現することで、日本のアメリカに対する戦争がそもそも最初から勝ち目のない「子供と大人の喧嘩」であったことを象徴的に示しているのでは、などと勘ぐってみたりもした。

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