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2005年3月14日 (月)

本願他力

人が悪いことをすることを思いとどまる拠り所として、経験的な道徳心があると思われる。それは親からのいましめであり、あるいは学校での道徳教育から受けたものでもあるかもしれない。

いずれにしても物事の判断力が養われてからの後発的な価値判断である。

その中でもおのおの潜在意識の中に「こういう事をするとひょっとして地獄に堕ちるのでは」といった価値判断が多かれ少なかれ働くのではないだろうか。例え特定の宗教の教義に傾倒するわけでもないのに、この一瞬の内面から沸き起こる「ささやき」によって自己抑制が働き、かかる悪いことをすることを思いとどまる事は誰しも経験があるに違いない。

歎異抄第三条には善人より悪人の方が遥かに救われると記されている。すなわち常に善たる行いを旨とする人は、己の善を当然の行為と考え、阿弥陀様にひたすらすがりつくという姿勢が欠如し、したがって無心に阿弥陀様に救済を求める人に比べて無心の気持ちが希薄で、そのような人は阿弥陀様の本来的な救済の対象ではないそうだ。

もっぱら他力すなわち阿弥陀様のお力にすがる心の有り様が正真正銘の極楽浄土の道へつながる事になる。これが親鸞の説く逆説中の逆説であり、悪人の方が善人より救済の可能性が高いのである。更に親鸞はこう説く。「阿弥陀様の本願を信ずるためには他の善をする必要はない。念仏するのみでよい。なぜなら念仏することが最大の善であるからだ。」

無論法治国家に生きている我々であるので、法の下の規制とそれぞれの道徳心と向き合いながら、日々生活していかなければならないが、過剰なまでの道徳心によって己の行為が内面的に自己規制を受けると、極めて窮屈な生き方をしなければならない。親鸞の説く宗教上の教義と実社会でのさまざまな規制とを上手く止揚するのは難しいかもしれないが、気分的にかなり楽になる一種の方法論としては面白いかもしれない。

歎異抄:親鸞の弟子の唯円が親鸞の教えをもとに、親鸞の死後の異説に痛烈な批判を加え、書き記したもの。

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