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2007年11月27日 (火)

フィンセント・ファン・ゴッホ

先日「世界美術館紀行」が再放送された。久石譲のノスタルジックな"Musee imaginaire"がテーマ音楽の、あのNHKの番組である。「美術館にはそこでしか語れない物語がある」という石澤典夫アナウンサーの落ち着いた、存在感のある声質のナレーションが観るものを惹き付ける。

そのなかでゴッホ美術館の紹介はとても感動的で、目頭が熱くなるのを憶えた。フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh)は1853年にオランダに生まれた。彼は若い頃、癇癪持ちで、気性が激しく、その性格故、学校や職場からも追われる身となったが、27歳で画家になる決意をしたとき、温かい援助の手を差し伸べたのは弟のテオであった。

フィンセントは33歳のとき、テオを頼って、芸術の都、パリへ移り住んだ。このとき、兄は弟の住まいに同居するようになる。この時代、パリでは1878年に万博が開催され、「ジャポニズム」が花開いた。日本から出品された浮世絵などの美術品はモネやゴッホなどにも多大な影響を与えたと言われている。

ゴッホと日本の浮世絵との邂逅は、ゴッホの絵画の方向性も変えてしまう。浮世絵に魅せられたゴッホは、自分の作品も浮世絵のように明るく、自由になりたいと願った。実際、そのように作品が明るい色調に変化してゆく。更に明るい絵の題材を求め、彼は日本の風景に似た明るい陽光が照らす、南仏の街、アルルへと旅立った。

ゴッホの絵は全く売れなかった。生きている間に一枚しか売れなかった。そんな極貧の兄にテオは相変わらず仕送りを続けた。更にテオは妻ヨハンナとの間に生まれた子供に「フィンセント」と名付けた。そしてヨハンナもまた義兄フィンセントを温かく見守った。しかし、この仲睦まじい兄と弟にやがて永遠の別れが訪れる。37歳の時、フィンセントは自殺を図る。その兄を追うように、半年後、弟テオが病死する。

テオの妻、ヨハンナは、この兄弟の700通にも及ぶ手紙を整理し、書簡集として発表した。テオの遺児、フィンセントは、伯父のフィンセントの絵画を世に広めることに尽力した。ゴッホが遺した作品はテオの子、フィンセントが相続し、オランダ政府やアムステルダム市などの援助もあり、1962年、ゴッホ財団を設立した。ゴッホの死から83年後のことであった。

現在、ゴッホ美術館の作品は、財団がゴッホの作品を美術館に永久寄託する形がとられている。そしてゴッホ財団の現理事長は、ゴッホの子孫、4代目フィンセント・ファン・ゴッホ氏である。

最近、この愛すべきフィンセントとテオの兄弟の物語に素晴らしい後日談が加わった。鹿児島のある会社が、フィンセントがパリ時代に同居していた弟テオのマンションの一室を、購入したそうだ。ゴッホに関わる資料として保存するらしい。

鹿児島人には、我々の先達が西洋絵画の黎明期を築いた、という自負心が少なからずある。浮世絵に、そして日本に憧憬の念を抱いた西洋絵画の巨匠に、敬意を込めて、このモンマルトルの住居を大切に保存して欲しい。

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拙運営の鹿児島の観光・温泉紹介HP「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/kagoonin.htm
内のサブ・コンテンツ「陽山美術館訪問記」
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/KAGKAN91.HTM
から貴記事にリンクを張りましたので、その旨報告いたします。

今後とも、よろしくお願い申し上げます。

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