天璋院篤姫(6)
篤姫も40回を数え、いよいよ終盤戦を迎えつつある。ドラマの舞台裏では、既に宮崎あおいちゃんのカットの撮影は終了したらしく、終了後、家定公(堺雅人)から花束を贈られて、彼女は号泣したそうである。
39回では、後半薩英戦争のシーンが登場し、CGを駆使して錦江湾(鹿児島湾)を挟んでの戦闘がリアルに再現され、興味深かった。戦争といえばとても陰惨なイメージが付きまとうが、「翔ぶが如く」では、同じく薩英戦争の場面で、大山綱良(蟹江敬三)等がスイカ売りに扮し、小舟でイギリス艦隊に接近し、敵の油断に乗じて白兵戦を挑むなんて場面もあり、これが決してフィクションではなく、史実として紹介され、不謹慎ながら思わず笑ってしまった。
この薩英戦争の際、薩摩藩の何人かがイギリス軍の捕虜となり、「捕虜が数人でた。しかし薩摩藩がこれを不道徳としたような形跡はなかった。彼らは帰還後も十分な処遇をうけ、その捕虜団のなかから寺島宗則という外務大臣も五代友厚という政商も出ているのである。武士の時代というものは、要するにそういうものであった。-司馬遼太郎著 歴史と視点 新潮文庫、大正生まれの「故老」15〜16頁より引用-」ということらしい。「生きて虜囚の辱めを受けるな」という発想は薩摩にはなかったようだ。
薩摩ではあまり深淵な思想や哲学は流行らなかった。長州における吉田松陰のような観念論者がいなかったため、論理に溺れるような傾向はなかった。教義といえば、島津日新公の「いろは歌」に代表されるように、実利を重んじる、極めてプラグマティックな、経験哲学的なものが幅を利かせていた。というのも暖かい南国である為に、囲炉裏端で寒さに耐えて、崇高な哲学書を読みふけるという場面が成立し得なかったと私は想像するのである。
そんな薩摩藩の思考は、端的にいうと、物事を「損得」で判断するという論理に帰着したのだと思う。別にこれは私が考えたものでもなく、何らかの本からの受け売りに違いないのだが、このことが明治維新を成し遂げるための方法論としては良かったのかもしれない。
鹿児島は「文学不毛の地」とよく言われる。著名な作家としては「海音寺潮五郎」くらいしか見当たらない。それほど左脳的思考方法は苦手なのだが、右脳的思考方法は極めて得意なようで、黒田清輝、和田英作、藤島武二といた西洋絵画の巨匠を産み出した。
よく経験哲学を次のように説明することがある。「あなたは地球に最後の日が来たとき、どうしますか?」と問われる。すると「そんなこと、その時になってみなければ分からないよ。」と経験論者は応える。鹿児島人に「捕らぬ狸の皮算用」は要らないかも(笑)。
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