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2011年6月

2011年6月25日 (土)

中陰の花

先日、イギリスの著名な理論物理学者のホーキング博士が、ガーディアン紙のインタビューに応え、「天国は存在しない。それはおとぎ話に過ぎない。」と発言し、話題になった。「私は脳をコンピューターのようなものと考えている。構成要素が働かなくなると機能が停止することになる。天国とか、死後の世界なんてものは存在しない。」と博士は説明した。

唯物論においては、事物の根源は物質や物理現象であり、心や精神は脳髄の働きであるに過ぎない、と定義づける。博士の考えはこの唯物論に限りなく近いし、それ自体別に不可思議な発想ではない。唯物論と唯心論は事柄を捉える角度の違う観念付けあり、絶対的な対立軸とみなすものではないと思う。

私はホーキング博士が唯物論を堅持する立場は理解できる。なぜなら天国とか地獄とか、死後の世界の存在が周知の事実として客観的に証明されているわけではない以上、科学者の立場として、それを否定する理屈も成り立つわけだ。またその逆も然りである。

ただ例えば、ボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」とか、ミケランジェロの「最後の審判」などの神とか天国や地獄の存在を前提としているであろう作品群、あるいは数多の仏教美術などが生まれなかったと仮定した場合、人間の想像世界は何と味気ないものであるかと考えるのである。

玄侑宗久さんの「中陰の花」は初めて読んだが、とても楽しめた。作者が現役のお寺の住職であるために、小説のなかに仏教的な世界観が広がることはある程度予想でき、また難解な仏教用語がちりばめられていることも理解できるが、それ以上に作品の本質が夫婦愛や隣人愛などのベーシックな価値に連なっていることが共感できた。この世とあの世の中間の「中陰」という位置づけも読者の好奇心を刺激する。 

巻末の河合隼雄さんの「解説」と作者の「文庫版のためのあとがき」は、なるべく読んで欲しい。 作品への理解が深まると思う。 

Stephen Hawking: 'There is no heaven; it's a fairy story'(Guardian.co.uk)

私だけの仏教(発見・鹿児島!blog)

2011年6月11日 (土)

女が愛に生きるとき

何とも艶やかなタイトルである。いつものようにBOOKOFFで¥105均一の棚の本を物色していたところ、田辺聖子さんの「女が愛に生きるとき」を見つけた。新刊書なら手を出すのを躊躇するであろうが、古本を4、5冊まとめ買いするためだろうか、気恥ずかしさはなかった。

「女の敵は女」とよく言うが、同性の同性に対する指摘であるためか、全く遠慮がない。

女性は自分にとって、何が本質的に大事なのか、何をいちばん大切にしないといけないのか、あとさき、どれを先にすべきか、見きわめがつかなくなることがあるようである。(中略)女性のおしゃべりが脱線しがちなのは、この、本末を見きわめる能力に欠けているからである。しゃべっているうちに迷路に迷いこんだり、ゆくさきざきで芽をふいたりして、ひまがかかる。(以上は田辺聖子「女が愛に生きるとき」-本末転倒-講談社文庫45頁からの引用である。)

女がほんとに残酷になると、男の残酷など物の数ではない。(中略)いったい、やさしさは女の武器と世間も思い、男も女にやさしさを要求するが、男より女がやさしい、ということには私は疑問である。女のやさしさは、単に弱気であったり、媚びであったり、無責任であったりすることが多くて、真の自立した精神から発せられる毅然としたやさしさでないことが多い。しかしその反対の残酷は、これはもう、正真正銘のものである。(以上は田辺聖子「女が愛に生きるとき」-女の残酷と優しさ-講談社文庫71〜72頁からの引用である。)

このように田辺さんの主張を並べてしまうと、女性は単に強欲な、ただならぬ生き物のように思えるのだが、決して女性を賛辞する麗句を忘れはしない。

そして、女は、女であることそのことにおいてすでに才女なのです。つまり、女に生まれたらみんな才女であると私はは考えるのです。女という女はみんな、「ある種の生きる才能」をもって生まれた、いや、その才能をもっているからこそ、女であるのですから。(以上は田辺聖子「女が愛に生きるとき」-女はみんな才女である-講談社文庫204頁からの引用である。)

夫は、「まったく、ウチのヤツはしようがない、何もできないんだから」と思いながら、妻にたいするかずかずの不服を心の中で並べたて、その不服が、妻に対する愛情になっていることに気づいていません。このクラスの妻は、たいがい夫より数等うわてのしたたか者で、それゆえに、愛情をさめさせない手腕はなみなみならぬもの、良妻賢母じゃない、悪妻型が多いのですが、本当はとてもしっくりしている夫婦なのです。(以上は田辺聖子「女が愛に生きるとき」-女はみんな才女である-講談社文庫213頁からの引用である。)

稀代の戦略家であったカエサルは、己が貢ぎ物の中に隠れ、それをカエサルへ届けさせ、カエサルの愛を獲得したという逸話の残っているクレオパトラの戦略にはかなわなかった。男とは心地よく女性に支配されるのは厭わないという、まったく単純で愚かな生き物なのかもしれない。


2011年6月 6日 (月)

梅雨の晴れ間

私はパステルカラーは好きではない。同様にアジサイの花もあまり好きではないのだが、近所に咲いていたアジサイが、梅雨の晴れ間にあって美しかったので、思わずシャッターを押してみた。一服の清涼剤になれば幸いだ。

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