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2011年6月11日 (土)

女が愛に生きるとき

何とも艶やかなタイトルである。いつものようにBOOKOFFで¥105均一の棚の本を物色していたところ、田辺聖子さんの「女が愛に生きるとき」を見つけた。新刊書なら手を出すのを躊躇するであろうが、古本を4、5冊まとめ買いするためだろうか、気恥ずかしさはなかった。

「女の敵は女」とよく言うが、同性の同性に対する指摘であるためか、全く遠慮がない。

女性は自分にとって、何が本質的に大事なのか、何をいちばん大切にしないといけないのか、あとさき、どれを先にすべきか、見きわめがつかなくなることがあるようである。(中略)女性のおしゃべりが脱線しがちなのは、この、本末を見きわめる能力に欠けているからである。しゃべっているうちに迷路に迷いこんだり、ゆくさきざきで芽をふいたりして、ひまがかかる。(以上は田辺聖子「女が愛に生きるとき」-本末転倒-講談社文庫45頁からの引用である。)

女がほんとに残酷になると、男の残酷など物の数ではない。(中略)いったい、やさしさは女の武器と世間も思い、男も女にやさしさを要求するが、男より女がやさしい、ということには私は疑問である。女のやさしさは、単に弱気であったり、媚びであったり、無責任であったりすることが多くて、真の自立した精神から発せられる毅然としたやさしさでないことが多い。しかしその反対の残酷は、これはもう、正真正銘のものである。(以上は田辺聖子「女が愛に生きるとき」-女の残酷と優しさ-講談社文庫71〜72頁からの引用である。)

このように田辺さんの主張を並べてしまうと、女性は単に強欲な、ただならぬ生き物のように思えるのだが、決して女性を賛辞する麗句を忘れはしない。

そして、女は、女であることそのことにおいてすでに才女なのです。つまり、女に生まれたらみんな才女であると私はは考えるのです。女という女はみんな、「ある種の生きる才能」をもって生まれた、いや、その才能をもっているからこそ、女であるのですから。(以上は田辺聖子「女が愛に生きるとき」-女はみんな才女である-講談社文庫204頁からの引用である。)

夫は、「まったく、ウチのヤツはしようがない、何もできないんだから」と思いながら、妻にたいするかずかずの不服を心の中で並べたて、その不服が、妻に対する愛情になっていることに気づいていません。このクラスの妻は、たいがい夫より数等うわてのしたたか者で、それゆえに、愛情をさめさせない手腕はなみなみならぬもの、良妻賢母じゃない、悪妻型が多いのですが、本当はとてもしっくりしている夫婦なのです。(以上は田辺聖子「女が愛に生きるとき」-女はみんな才女である-講談社文庫213頁からの引用である。)

稀代の戦略家であったカエサルは、己が貢ぎ物の中に隠れ、それをカエサルへ届けさせ、カエサルの愛を獲得したという逸話の残っているクレオパトラの戦略にはかなわなかった。男とは心地よく女性に支配されるのは厭わないという、まったく単純で愚かな生き物なのかもしれない。


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