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2013年11月

2013年11月30日 (土)

秋たけなわ

暦のうえでは明日から「師走」で、今日までが秋だという固定観念がある。ここ10年くらいを考えると、カレンダーと実際の感覚に明らかにズレがある。全く晩秋とは思えない。鹿児島は南国のせいだろうか、モミジが紅く色づく景勝地が少ない。鹿児島市の慈眼寺公園は、その数少ないモミジの紅葉が楽しめる場所だ。

行ってみたところ、やはり紅葉の真っ盛りには少し早かった。もう一週間は待った方がよさそうだ。ただ、ここは市内近郊であるにもかかわらず、人工美でない、そのままの景観が楽しめるため、季節に関係なく、ちょくちょく足を運ぶ場所だ。

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オフシーズンであるわけで、ソーメン流しのアクリル製の回転装置が外されていた。

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もう一週間は待った方が良かったかも。

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それでも、秋たけなわ。

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グラデーションがかかっているようで、こういうのも悪くない。

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秋は真っ盛り。

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2013年11月28日 (木)

頴娃大川駅(指宿枕崎線)

水成川駅から国道226号線をはさんで、海岸方向に足を伸ばすと「番所鼻公園」がある。ここからの開聞岳の眺めは秀抜で、伊能忠敬が本格的な日本地図を作るために、全国を巡って薩摩のこの地に立ち寄ったおり、「天下の絶景」と感嘆したとのこと。

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水成川駅の周辺は閑散としているが、のどかな風景が広がる。

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番所鼻公園より

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頴娃大川駅

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お隣の頴娃大川駅に移動。ここは駅のホームより開聞岳を望むことが出来る。また下り方面(枕崎側)には駅のホームを跨いで人道橋が架かっており、ここからは開聞岳を背景に駅全体をせん望できる、有名なシャッターポイントだ。


2013年11月22日 (金)

水成川橋梁(指宿枕崎線)

指宿枕崎線の石垣駅と水成川駅の間に水成川橋梁がある。立派なこの鉄橋は海側の国道226号線からも見渡せるが、橋桁付近にまで足を延ばすと、そこからの眺めもかなり良い。

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高さは20M位あるだろうか。壮観!

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アオサギ?遥か頭上の高欄よりこちらを見下げているの?

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上り列車の通過。山川駅を過ぎると、枕崎までの間は本数が極端に減るので、時刻表と太陽の位置とのにらめっこ。

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深閑とした水成川駅のたたずまい


おまけの動画

指宿枕崎線は、なかなか見所の多いローカル線だ。枕崎駅の駅舎がリニューアルされたのを機会に、沿線の旧遊の地を再訪することにした。


2013年11月17日 (日)

大和よ安らかに

今春、宇宙戦艦ヤマト2199(以下2199と略す)の放送が地上波でオンエアされた。1974年の宇宙戦艦ヤマト(以下ヤマトと略す)の初回放映から40年近い歳月が流れたことになる。感慨深い。ヤマトの声優陣も沖田十三役の納谷悟朗氏、古代進役の富山敬氏、真田志郎役の青野武氏、古代守役の広川太一郎氏、ドメル将軍役の小林修氏と、多くの方々が故人となられた。

ヤマト放送当時、鹿児島の民放は2局で、ヤマトの裏番組はTBS系列局が「猿の軍団」を流しており、他方がクロスネットとして日テレ系とフジテレビ系の番組を中継し、そのためヤマトもこちらの局が番組を受け持っていた。同作品は読売テレビが制作したが、2199は毎日放送が担当することになった。不思議な因縁である。音楽はヤマトの作曲者、故宮川泰氏のご子息、宮川彬良氏が受け継いだ。

40年近い両作品の隔たりは、技術の進化をまざまざと見せつけられた。20インチ程の4:3のアナログテレビに替わって、16:9のワイドテレビが展開するハイビジョン映像は、圧倒的な情報量の優位性によって、観る者を興奮の渦へと押し流す。CGが醸し出すクオリティは、40年前には不可能だった。テクノロジーの猛烈な進化にただただ敬服するしかない。

2199において、沖田十三提督率いる第一艦隊は、冥王星沖合において「メ号作戦」を開始した。第一の目的はイスカンダル星よりもたらされる「波動コア」の技術事項が記録されたカプセルを受領することであり、火星で待機していた古代進と島大介がその任に当たった。第一艦隊は古代守艦長の駆逐艦「ゆきかぜ」を帯同し、彼等の任がカプセル受領の妨害を企てるガミラス艦隊への陽動を意図していたことは極秘扱いとされた。

劇中「ゆきかぜ」は対ガミラスとの戦闘で大破し、土星の衛星エンケラドゥス(ヤマトの設定ではタイタン)でその残骸が発見される。この「ゆきかぜ」こそは太平洋戦争末期、旧日本海軍第二艦隊の戦艦大和による「天一号作戦」に参加した第二水雷戦隊(旗艦矢矧)所属の駆逐艦「雪風」に由来する名称である。旧日本海軍の雪風は「奇跡の駆逐艦」と呼ばれ、大戦の初期から坊ノ岬沖海戦まで一貫して武勲を挙げ続け、戦後は賠償艦として中華民国に引き渡され、1969年に廃艦、1970年の解体によって艦歴を全うした。

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戦艦大和殉難鎮魂之碑(1)

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戦艦大和殉難鎮魂之碑(2)

私はかねてより枕崎の火之神公園にある平和祈念展望台を訪れようと願っていた。ここには「戦艦大和殉難鎮魂之碑」があり、戦艦大和を始めとする第二艦隊が沖縄決戦へと向かう途中、鹿児島県の坊ノ岬沖でアメリカ軍と応戦し、大和、矢矧、磯風、濱風、霞、朝霜が撃沈、4000名近くの尊い命が海中に散った。枕崎から大和終焉の地点まで西南西に約200キロであり、本土で一番近い場所であることから、平成7年に鎮魂の碑が建立された。

21世紀を生きる我々にとって、太平洋戦争はかなり遠い過去の出来事である。しかし70年前にごく普通の日本人が、国家の命令に従い、戦争に駆り立てられ、戦地に赴き、正義の名の下、戦闘行為の一翼を担った。将来に限りない夢を抱いていた若い学生、愛しい妻や子供との満ち足りた生活を送っていた父親、そして尊敬すべき父や母を養っていた息子達。彼等はそれぞれの大切な事情を諦め、やむなく投げ出して戦地へ向かった。全てはお国のために。無念だったと思う。

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第二艦隊沈没地点の方を向いている。

誰だって戦争で死にたくないし、戦場で敵兵を殺したくはない。けれど己が生き延びるためには避けられない手段だ。故郷での平穏な生活をかなぐり捨て、妻や子供のため、父や母のため、日本のために、銃を手に戦場を目指した多くのごく普通の、善良な日本人が、帰らぬ人となってしまった。

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この穏やかな海の彼方に戦場があった。

私は70年前に日本という国家が国民に「国のために命を差し出してくれ」と命じた事実を決して忘れてはならないと考える。近親者はもちろんのこと、その他の多くの見知らぬ日本人のために戦場に散った人々のことを忘れてはならないと考える。私の出来ることと言えば、同じ鹿児島の枕崎へ足を運び、感謝と哀悼の意を捧げることしかできないけれど、今も坊ノ岬沖の海中深く眠っておられる方々のことを忘れることはない。

坊ノ岬沖海戦(Wikipedia)

2013年11月 2日 (土)

死の棘

映画「死の棘」は島尾敏雄の同名の小説「死の棘」が原作であり、小栗康平監督によって1990年に映画化され、同年、カンヌ映画祭でパルムドールに次ぎ、審査員グランプリに輝いた名作である。但し、それほど古い作品でないものの、鑑賞する媒体が限られ、視聴するのが困難であったが、アップルのiTunesに作品が掲載されていることを知り(しかもかなり廉価で)、観ることにした。

「おまえ、どうしても死ぬつもり?」との敏雄の問いに、「あなた様と言いなさい。」とミホが応える、いわば禅問答のような場面から物語は始まる。率直な感想だが、映画の方が簡潔で、解り易いと思えた。小説は500頁を超える大作ながら、敏雄とミホの押問答が延々と続き、そのなかに「死」と隣接した情景が幾度も展開され、読む側の気分も次第に萎えて行く。

新宿で乗りかえるとき、妻は奇声をあげて出口の階段のほうに駆け出した。(中略)あいつがいた、あいつがいたと目を据えて妻は叫んだ。」下線部は島尾敏雄「死の棘」新潮文庫180頁からの引用。あいつとは浮気相手を指しており、ミホは常に幻覚に襲われている。

伸一、早く来て!早く、早く。おとうさんが死のうとする!と叫び、ふたり一緒になって手ぬぐいや紐を巻きつけて引っぱっている私の腕にかじりついてくる。下線部は島尾敏雄「死の棘」新潮文庫266頁からの引用。

トシオ、こいつの足をしっかりおさえてちょうだい。あたしの指はもうこわばって動かない。あなた、まさか、こいつの身方をするんじゃないないでしょうね」下線部は島尾敏雄「死の棘」新潮文庫433頁からの引用。映画では浮気の相手(木内みどり)が引っ越した佐倉の新居まで押し掛け、ミホ(松坂慶子)がその女と取っ組み合いの喧嘩を始め、トシオ(岸部一徳)は呆然とその場で傍観している。

私の疑問は何故ミホがこうも粉々に精神が壊れたのかということだ。それについては、鹿児島の「かごしま近代文学館」にて「島尾敏雄写真展」が11月18日まで開催されており、足を運んでその疑問が多少明らかになるのではと考えた。

島尾ミホ(旧姓大平ミホ)は奄美群島の加計呂麻島で生まれたが、学生時代を東京で過ごし、日の出高等女学校(現日の出学園)を卒業後は植物病理研究所で菌の人工栽培研究の助手を務めた。病気を理由に加計呂麻島へ戻ったが、都会的な洗練された雰囲気とその美貌は、当時海軍の特攻隊長として島に赴任した敏雄をも虜にしたのだろう。

目映いほどの海軍士官としての敏雄に惹かれ結婚しながら、一人間としての「トシオ」に浮気され、裏切られたミホの心中は勿論他人が計り知り得るものではないが、彼女は単に「雛には稀な美人」でもなかったことも事実である。

恐らく映画を観た方がこの作品の全体像が捉え易いと思う。小説は島尾敏雄の日記を下地に描かれており、延々と事実たる内容が、文脈をあまり意識せずに記されている。現状ではDVDなどの媒体を入手するのが困難な以上、iTunesを利用するのが良いと考える。

尚、写真展においては、敏雄がミホに書かされた絶対服従の「誓約書」が展示されていて、それはそれとして生々しい事実を垣間見ることができた。


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