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2014年6月

2014年6月30日 (月)

江口浜(発見・鹿児島!)

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江口浜(日置市)1999.12.撮影

江口浜は今や鹿児島県本土におけるサーフィンのメッカである。シーズンである冬場にはR270沿いに沢山のRV車が並び、ウエットスーツに身を包んだサーファーが果敢に波に向かっている様子を眼にする。東シナ海に面しているため、夕景がとても眩しく、陽の光が海面に当たると、光が屈折して鮮やかな輝きを放ち、しばし彼等のボードさばきに眼が釘付けとなる。

吹上海浜公園とクロツラヘラサギ(発見・鹿児島!)

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平穏なクロツラヘラサギのテリトリーにマナヅルが侵入。

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クロツラヘラサギ/2002.12撮影 その他は2000.5撮影

吹上浜海浜公園は、南さつま市の万之瀬川河口周辺の約110haの区域に昭和61年オープンした。域内には絶滅が危惧されている世界的に貴重なクロツラヘラサギ(英名 Black-faced Spoonbill)が越冬のため大陸より飛来し、干潮時に万之瀬川の中洲や浅瀬でえさを捕食しているようすを公園内にある「野鳥観察の家」で観察することができる。(フィールドスコープが完備され、バードウォッチングを楽しむ事ができる。)

BirdLife Internationalの発表によれば、2004年には世界中でクロツラヘラサギが22%増の1,475羽に達した事が明らかになった。1989ー1990の冬期には294羽しか確認できなかったが、その後90年代に入って回復が見られ、2003年には1000羽を超えるようになった。(2003年に9.3%、2004年に13%、そして現在22%に増加した。)ただ、香港バードウォッチング協会はクロツラヘラサギが特定の地域に集中して棲息し、そのため棲息地域の減少やそれに伴う疫病による個体数の減少という危険にさらされていると警告している。

2011年、クロツラヘラサギの個体数は大幅な減少を示した。2010年の2,347から2011年の1,848へと20%も減少した。これは IUCN((=International Union for Conservation of Nature/国際自然保護連合)によってレッドリスト(絶滅危惧種)になったことを意味する。越冬地の棲息数が最も多い台湾では、2010年の1,280から2011年には843と34%の減少が確認された。個体数の減少の大きな原因は棲息地の開発による環境の悪化だ。

BirdLife International

2014年6月25日 (水)

笠沙・坊津PART3(発見・鹿児島!)

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博多浦の江篭潭(エゴンタン)坊津町久志
江篭潭とは潮の干満を利用した浮ドッグのことで、満潮時にこの中に船を停泊させ、両岸より綱を張って船にきつく結び、干潮時に船が宙釣りになることを利用して船底の船虫を駆除するものだったらしい。貿易をする以上、船の修理は欠かせないものであり、原理は単純だが成果をあげるに充分であったようだ。

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唐人墓 
17世紀頃、薩摩と明との間での交易は盛んに行われていた。現在でも博多浦には唐人町の地名や唐人墓が残っており、かつて唐人がここに居住していたころの繁栄を伺い知ることができる。

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泊浦

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輝津館(坊津町坊) 
老朽化した歴史民俗資料館を改築し、平成16年に開館。坊津の貴重な文化遺産を保存し、紹介することを目的に建造された。貿易の歴史や一乗院に関連する資料など、約3千点が収蔵、展示されている。

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双剣石 
平成13年に国の名勝に指定された。三国名勝図会にも紹介されている古くからの景勝地である。

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梅崎春生文学碑 
第2次世界大戦下、梅崎春生は、ここ坊津で海軍の通信下士官として、暗号文の解読の任務にあたっていた。その希有な体験をもとに描かれたのが、彼の遺作となった小説「幻化」である。精神病を患っていた主人公の「五郎」は、東京の病院を抜け出し、戦時下軍人として過ごした坊津を、20年ぶりに訪れたのだった。あの岩の島の名は、何だったかしら」「双剣石よ」二つの岩がするどくそそり立ち、大きい方の岩のてっぺんに松の木が一本生えていた。その形は二十年前と同じである。忘れようとしても、忘れられない。 下線部は梅崎春生著「幻化」講談社文芸文庫245頁~246頁からの引用である。

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密貿易屋敷跡(旧倉浜荘)
坊津は幕府の眼の届かない遠方の地であったため、鎖国時代においても密貿易が途切れることはなく、巨万の富を得る豪商が出現した。

寛永16年(1639)、徳川幕府は完全な鎖国政策を敷いた。その一方で薩摩藩は幕府によって琉球口貿易が認められていたので、琉球を介して明との貿易を行うことができた。薩摩藩の領内ではしばしば唐船が漂着するため、これらに備えて唐通事という通訳を領内に待機させた。そして時に唐船の漂着を装っての貿易もかなり行われたようで、琉球口貿易を口実としての密貿易と同じく、これらの貿易は藩の財政を支えるのに多いに役立ち、幕末から明治維新に渡る動乱期の薩摩藩の活躍を後押しする力となった。そのような状況のもと、坊津は陬遠の地であることを最大限に利用することで繁栄を極めたのである。

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一乗院跡 
現在は坊泊小学校となっている。三国名勝図会に描かれた壮大な仏閣を想像することは甚だ困難で、一乗院はまさに明治の廃仏毀釈によって忽焉と消滅してしまったと理解する他ない。

一乗院(沿革)
三国名勝図会によれば、「敏達天皇12年(583)、百済の日羅という僧が来日して、各地を遍歴し、坊津に上の坊、中坊、下の坊といふ坊舎仏閣を営造し、自ら阿弥陀像三体を刻みて、三坊に安置し、龍厳寺と号した」とある。さらに「長承3年(1133)、11月3日、鳥羽上皇院宣を下し、当院を以って紀州根来寺の別院とし、西海の本寺とする。また上皇の御願所として如意珠山一乗院の勅号を賜う」とも記されている。一乗院は西国でも有数の寺院として知られるようになった。

ところで根来といえば戦国時代の勇猛果敢な根来衆のことが思い浮かぶ。ポルトガル伝来の鉄砲一挺を手に入れた根来は、この西洋の最新の火器を大量生産するようになり、鉄砲を装備した無敵の根来衆を組織するようになった。彼らは鉄砲を売りさばく死の商人として全国を行脚し、巨万の富を得た。しかしそのことは皮肉にも織田信長や豊臣秀吉の全国統一を早めることとなり、根来衆も天正13年(1585)、秀吉によって根来寺ともども滅ぼされるにいたった。このとき、多くの僧が一乗院を頼りに落ちのびてきたといわれているのである。

その後は、島津家中興の祖、島津忠良(日新)をはじめ、貴久(15代)、義久(16代)、光久(19代)らの歴代の島津藩主によって一乗院は手厚く保護されることになる。特に貴久は一乗院が後奈良天皇の勅願所になることに尽力し、鳥羽上皇より勅号を賜って以来の誉れを享受することになった。

廃仏毀釈
明治政府は明治元年(1868)神仏分離令を発布した。江戸時代からの仏教の国教化を否定し、神道国教化をすすめ、その上で神社の中から仏教的色彩を排除しようというものである。これまでの寺院の配下におかれていた神官たちも神仏分離にとどまらず、廃仏毀釈運動を展開し、全国各地で廃仏が行なわれた。廃仏毀釈はもともと江戸時代に僧侶が檀家を中心とした基盤の上に立っていため、本来の信仰や教義、修行に裏づけされた威厳を失い、堕落していったのが原因と見られている。薩摩藩内にあっても1616あった寺は残らず解体され、およそ3000人もの僧侶が還俗していった。無論、一乗院も例外ではなかった。鑑真大和上が日本において仏教の真の戒儀を整えるという大義を胸に、坊津の地に足を踏み入れてから1100年余り、皮肉にも仏教の戒儀の堕落を原因とする廃仏毀釈の大波に一乗院は呑まれていったのである。


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耳取峠より開聞岳を望む。
ここから開聞岳と枕崎の市街地を一望できる。国道226号に沿って薩摩半島西南の笠沙、坊津を巡った旅もここで終わりとする。

撮影2001年12月、2005年2月

(参考資料)
鹿児島県の歴史 原口泉 永山修一 日隈正守 松尾千歳 皆村武一 山川出版社(1999)
古事記 次田真幸(全訳注) 講談社(1977)
三国名勝図会(復刻版) 編纂者 五代秀尭 橋口兼柄 監修 原口虎雄 青潮社(1982)
鹿児島の本格焼酎 鹿児島県本格焼酎技術研究会 春苑堂出版(2000)
酒の科学 野尾正昭 講談社(1996)
坊津(遣唐使の町から) 森高木 春苑堂出版(1992)
天平の甍 井上靖 新潮文庫版(1964)
幻化 梅崎春生 講談社文芸文庫(1989)
日本の歴史(12)江戸開幕 藤井譲治 集英社(1992)

笠沙・坊津PART1(発見・鹿児島!)

笠沙・坊津PART2(発見・鹿児島!)


笠沙・坊津PART2(発見・鹿児島!)

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もろみの2次仕込みのようす(杜氏の里)
焼酎の製造工程→(1)蒸した米に麹を付着させて培養し、酵母と水を加えて1次もろみをつくる。(2)発酵が進む1次もろみに主原料である芋を加え、更に発酵させる。(3)ほぼ発酵の止まった状態のもろみを蒸留する。写真は丁度1次もろみに主原料(蒸かして粉砕した芋)を加えているところ。

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もろみの発酵を促すために、櫂で撹拌する。昔ながらのカメ仕込みによる作業工程である。

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タル式蒸留機 
手造りの少量生産に向いており、タルの木の香で独特の風味が付く。

宝永2年(1705)、「甘藷翁」こと前田利右衛門が琉球より薩摩へサツマイモを持ちかえり、その後起きた亨保の大飢饉(1732)では多くの人々を救うこととなった。このサツマイモを原料にした焼酎は一般に18世紀の中頃には誕生したものと考えられている。もともと藩制時代には自家醸造が広く認められていたが、明治に入って税制の確立とともに焼酎の産業化が進み、製造技術も発展していった。戦後は麹菌や製麹機の改良、発酵糟や蒸留機の大型化によって大量生産が可能になり、昭和50年代の第1次焼酎ブームがプラス材料となって焼酎の生産量は大きく伸びた。最近の度重なる増税にもかかわらず消費の伸びは衰えず、一方で昔ながらのかめ仕込みによる手造り焼酎の良さが見直されてきている。

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杜氏の里の前方に広がる黒瀬海岸を望む。

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沖秋目島 

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鑑真大和上上陸記念の碑と鑑真記念館(南さつま市坊津町秋目)  
記念館は鑑真の偉大な功績とその生涯を知る上でとても役立つ。なお坊津町では鑑真大和上の遺徳を偲んで、毎年8月の第1日曜日に鑑真大和上祭りが行われる。

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秋目浦 
秋目の地を踏んだとき、鑑真一行が眼にした光景はやはりこれほどまでに美しかったのだろうか。

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秋目浦で映画のロケを記念した碑を見つけた。

聖武天皇の天平4年(732)、第9次遣唐使の派遣が決まり、その中に大安寺の普照、興福寺の栄叡の名があった。この時代、律令国家を目指しつつも国家の根幹がなかなか構築できず、おまけに仏教会の戒儀は紊乱著しく、日本に戒法を伝える唐の高僧を招聘することが急務となっており、普照、栄叡がその任を負うこととなった。

彼らは長安、洛陽に次ぐ大都会であった揚州の大明寺に赴き、鑑真に拝謁し、彼にすぐれた伝戒の師の紹介を願いでた。しかし自ら進み出る者はおらず、鑑真本人が日本に旅立つこととなり、17名の高弟が鑑真に随伴した。しかしこの鑑真の訪日は困難を極めていた。もともと隠密に渡航の計画を進めていたため、鑑真の本願とは裏腹に、弟子の中には彼の渡航を阻止すべく役人に訴え出るものがいた。栄叡らはほどなく投獄され、1回目の渡航は頓挫した。5回目においては強風に流され、はるか南の振州に流れついた。その間、鑑真は視力を失い、栄叡は病床に臥したまま帰らぬ人となった。そして6回目の渡航すなわち天平勝宝5年(753)に阿児奈島(沖縄)、奄美大島、益救島(屋久島)を経て同年12月20日、薩摩国阿多郡秋妻屋浦へ到着した。第1回目から数えて12年。鑑真はすでに66歳となっていた。この時、和人は普照ただ一人であった。

6回目の渡航には第8次の遣唐使であり唐朝の官吏にまで登りつめた阿部仲麿も別船にて同行したが、不運にも船ははるか遠く安南まで流され、2度と日本の地を踏むことがなかった。古今集の「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」は、この旅の途中で仲麿が詠んだものとされている。

翌年2月、鑑真一行は奈良の都へ入る。はるか唐より滄海を超え、終えることのできた旅路に彼らはいかなる感慨を持ったのであろうか。以下に鑑真のその後を記す。

天平勝宝6年(754)3月、天皇より鑑真らに伝燈大法師位が贈られる。

同年4月、東大寺にて聖武上皇、鑑真を和上として菩薩戒を受け、皇太后、孝謙虚天皇も同じく鑑真和上より戒を受ける。

同年5月、鑑真和上、唐より持参した幾多の将来品を献上。

天平勝宝7年、朝廷より建初律寺を賜る。

天平宝字3年(759)、金堂等の造営を終え、天皇より唐招提寺の勅額が贈られる。大僧都に任じ、大和上の号を加えられた。

笠沙・坊津PART1(発見・鹿児島!)

笠沙・坊津PART3(発見・鹿児島!)

笠沙・坊津PART1(発見・鹿児島!)

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加世田(現南さつま市加世田)を出発し、国道226号を西南の方へ進むと、やがて笠沙路の入口にさしかかったことを示す道標を見つけた。写真中央の野間岳に眼を留めながら、更に進むと次第に道幅が狭くなり、対向車とすれ違うことも少なくなってきた。

「 ここに天津日高日子番能邇邇芸能命、笠沙の御前に麗しき美人に遇ひたまひき。ここに誰が女ぞと問ひたまへば、答え白さく、大山津見神の女、名は神阿多都比売、またの名は木花之佐久夜毘売といふとまをしき。」以上が古事記の内容であるが、ニニギノ命が阿多のコノハナノサクヤ姫に出会ったのは阿多隼人の本拠地である笠沙の岬とされている。ニニギノ命はやがてコノハナノサクヤ姫を妻に迎えることとなる。そしてコノハナノサクヤ姫が生んだ子が後の火照命(海幸彦)であり、火遠理命(山幸彦)である。古事記に描かれた神話の内容は天孫降臨以降南九州を中心に展開されることになるが、これは九州南部の豪族、隼人との融和をはかるための政策的な記述であるとされている。

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野間岬ウインドパーク(1)
断崖絶壁の海岸線をゆっくり進むとやがて視界が開け、岬の上に垂直に並んだ風力発電の巨大なブレードが姿を現す。

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野間岬ウインドパーク(2)
平成9年、 笠沙町(現南さつま市笠沙町)の野間岬に2基の風力発電設備が設置された。そして年々増設され、現在は10基が稼動している。毎秒3.5メートルの風で発電を始め、1基あたり300キロワットの発電能力がある。一般家庭の平均的な消費電力を3キロワットとすれば、1基で100軒をまかなえる計算となる。展示館では風力発電のしくみ等を映像やパネルを交えて分かりやすく解説している。

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野間岬を望む。「絶景」、それ以外適当な言葉が見つからない。

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斎藤茂吉の歌碑(笠沙町姥 リアス式海岸展望所)
昭和14年10月〜昭和15年までの歌734首が歌集「のぼり路」に収めらた。昭和14年10月に茂吉が霧島、指宿、笠沙を巡ったときに詠まれたもの。平2年11月1日に旧笠沙町の町制施行五十周年を記念して歌碑が建立された。

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杜氏の里(焼酎づくり伝承展示館) 
笠沙町黒瀬集落は明治の頃より杜氏を数多く輩出してきた里として知られており、ここでは杜氏の伝統の技法を、文化的な遺産として後世に伝承していこうとする取組みがなされている。

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展示館内部のようす 
焼酎の製造工程をホロビジョンを交えて詳しく解説してくれる。写真はダレヤメを楽しむ様子。鹿児島の方言でダレヤメとは晩酌のことである。ダレ(疲れ)をヤメ(止める)から来ている言葉である。

笠沙・坊津PART2(発見・鹿児島!)

笠沙・坊津PART3(発見・鹿児島!)

2014年6月15日 (日)

新永吉の棚田(発見・鹿児島!)

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新永吉の棚田全景

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クローズアップ

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田の神様 
九州南部、鹿児島や宮崎の旧薩摩藩領内で見ることができ、田んぼの畦道などに置かれている。宗教的というより、自然崇拝的要素が強く、豊作を祈願するものである。地元では親しみを込めて「たのかんさあ」と呼ぶ。

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「篤姫」撮影記念碑 
「篤姫」の第1回の放送で、於一(篤姫)が、農民が飢餓で苦しんでいるのを知り、絶食を決意する。すると母のお幸が武家の子女の「役割」を説き、大きなおにぎりを腹を空かせた於一に与える。そのシーンが撮影されたのが新永吉の棚田である。

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無窮花(ムクゲ) 
アオイ科の低木で、夏から秋にかけて赤や白の花を咲かせ、品種も豊富。撮影記念碑の並びに大輪の花を咲かせていた。

ここ新永吉の棚田は、大河ドラマ「篤姫」のロケ地として一躍脚光を浴びる。棚田の奥に池田湖、開聞岳がパースペクティブに広がる様子は絶景で、ドラマの放送後、多くの人々が訪れる名所となった。

2008年7月撮影

2014年6月 9日 (月)

開聞岳・なのはな号の旅PART3(発見・鹿児島!)

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登山口(2合目)
駅より途中は宅地を抜け、開聞山麓自然公園を横目にしながらここまで辿り着くので、実感としてはここからが始まりのように思える。出発は午前9時。しばらく薄暗い松林を進むことになる。

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4合目より池田湖を望む。 
徐々に照葉樹が視界に入り出す。周囲が鬱蒼としている上に、登山道は侵食がひどく、足下が安定しない。4合目にはベンチが備えられており、小休止する。少し展望が開けており、池田湖が眼に映る。

開聞岳は標高924Mのトロコニーデと呼ばれる複式火山で、7合目辺りまでをコニーデ型、そこから上はトロイデ型と称している。きれいな円錐形をしているが、目を凝らしてみると、確かに7合目付近を境に、照葉樹の群生に少し違いがあるのがわかる。南九州の最南端に位置するため、気候が温暖で、麓から頂上部まで深い緑に被われている。別名「薩摩富士」と呼ばれ、古より信仰の対象とされてきた。麓には薩摩一の宮として、最も社格の高い、枚聞神社があり、開聞岳を御神体としている。ここより2キロほど離れたところには九州最大の湖、池田湖があり、ここからの開聞岳の姿も捨てがたい。

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5合目 
久しぶりの山登りなので、結構しんどい。ベンチを見つけたのでここでも小休止。

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7合目あたりの照葉樹林帯 
ここのルートは単調な上、かなりストイックである。照葉樹が幾重にも被いかぶさり、下界の景色を観賞する機会は全くない。7合目を過ぎるとコニーデ部分が終了し、やがて視界が開けるとのことなので、もう少し辛抱するとしよう。

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9合目より頴娃、枕崎方面を望む。 
上層のトロイデ部分に入ると次第に前方が開けてくる。大岩の狭間は足下が空洞になっている箇所があるので、注意が必要だ。次第に照葉樹も低木となり、9合目で東シナ海をはじめ、頴娃、枕崎の眺望が広がる。「登山道はうまく出来ていて、円錐形を直登するのでもなくジグザグでもなく、螺旋状に山を巻いて行くのである。」(下線部は深田久弥、日本百名山 朝日文庫366頁からの引用)まさに山を一周してきたわけで、日本百名山の記述が実感できる。

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開聞岳山頂にて 
岩壁に設けられた梯子を登り切り、暫くすると頂上に到達する。時間は11時半を回ったところ。丁度お昼時だ。頂きの大部分を潅木が被い尽くしている。ここは薩摩半島最南端の標高924Mにある行き止りである。そのため肉眼で、西から枕崎方面、池田湖、桜島、高隈山系、長崎鼻そして大隅半島の佐多岬と、鹿児島県本土の南部を鳥瞰することができる。それまで地図の上だけのものであった陸の形が、眼前に実際にそれと全く同じように広がっていることに感動した。

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池田湖 
昨年の11月半ばに登頂したのだが、快晴に恵まれた。まだそれ程寒くもなく、この上もない爽快感と充実感が心地よい。澄み切った秋晴れの中、しばらく余韻に浸ることにした。

924Mに修正された開聞岳
明治28年(1895)に国の調査で922Mとされた開聞岳の標高が106年ぶりに修正され、924Mとなった。これはある登山者に指摘を受けた国土地理院が平成13年(2001)調査を行った結果判明したもので、従来の三角点より南南東に5メートル程離れた岩場の方が2Mほど高かったようである。もともと三角点は測量のために設けられるのもので、作業の安全性や効率を優先する。従って山の客観的な標高とは必ずしも一致しない。登山者の指摘をそのまま国土地理院が受け入れた形となったわけであるが、すでに述べたように、三角点はかなり便宜的なものであり、登山者の多くもそれを暗黙のうちに受け入れてきた。100年以上もの間に誰もそれに気がつかなかった筈はない。実際に現場をこの目で見たが、やはり同様の感想を抱いた。もっとも国土地理院がすでに修正に応じた以上、話しを蒸し返すつもりはない。ただ924Mに修正された真新しい標識がとても立派であったことは紛れもない事実である。

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知覧町(現南九州市)にて

MEMO
2011年3月12日のダイヤ改正で、指宿枕崎線には観光特急「指宿のたまて箱」が登場し、「なのはなDX」は廃止になりました。

撮影2003年11月

(参考資料)
鹿児島県の歴史 原口泉 永山修一 日隈正守 松尾千歳 皆村武一 山川出版社(1999)
鹿児島県の歴史散歩 鹿児島県高等学校歴史部会 山川出版社(1992)
鹿児島の鉄道・百年 久木田末夫 春苑堂出版(2000)
鹿児島県の山歩き 吉川満 葦書房 (1991)
さつまいも-伝来と文化 山田尚二 春苑堂出版(1994)
ザビエルとヤジロウの旅 大住広人 葦書房(1999)
鹿児島に来たザビエル 小平卓保 春苑堂出版(1998)
三国名勝図会(復刻版) 編纂者 五代秀尭 橋口兼柄 監修 原口虎雄 青潮社(1982)
日本百名山 深田久弥 朝日文庫版 (1982)

開聞岳・なのはな号の旅PART1

開聞岳・なのはな号の旅PART2

開聞岳・なのはな号の旅PART2(発見・鹿児島!)

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「赤い快速」と並列する「黄色いなのはな」(山川駅)
快速「なのはな」号は山川駅が終点となる。朝夕の通勤、通学の時間帯を除いて、ここから先は列車の本数が極めて少ないため、開聞岳へは駅前より開聞駅の直行バスを利用するのが一般的なようだ。

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山川港
山川駅のすぐ眼の前に広がる。天然の良港で、往時は中国や南蛮の国との貿易によって殷賑を極めた。慶長14年(1609)、島津氏が琉球へ軍を派遣した折にも、ここから出発している。

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五人番所跡(異国船番所跡) 
山川港入り口付近にあり、異国船の出入りや密航を監視していた。尚、碑銘は島津宗家30代当主、島津忠重氏の筆によるものである。

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徳光神社 
別名唐芋神社とも言われている。前田利右衛門が琉球よりサツマイモを持ち帰り、その栽培によって人々を飢えから救ったと伝えられている。後に彼の遺徳を偲び、地元民によって山川の岡児ヶ水に徳光神社が建立された。

歴史の舞台、山川港
天文12年(1543)に三人のポルトガル人によって種子島に鉄砲が伝えられて以来、南蛮人がしばしば日本に足を延ばすようになる。天文15年(1546)にはポルトガル人のジョルジェ・アルヴァレスがここ山川より日本に上陸、見聞録を著し、ヨーロッパに紹介した。これはヨーロッパ人による最初の日本見聞録で、日本人が極めて高い倫理観を持つこと、そして山川付近の風俗だと思われるが、米焼酎を飲むことや砂蒸温泉の様子なども記されている。ジョルジェ・アルヴァレスがマラッカに戻る際に、地元薩摩のヤジロウも同行し、フランシスコ・ザビエルはアルヴァレスやヤジロウに面会したことにより、日本行きを決断したと言われている。そして天文18年(1549)、ザビエルはキリスト教の布教のため、ヤジロウと共に鹿児島上陸を果たしている。

サツマイモの話
甘薯のことは全国的にサツマイモと呼ばれていると思うのだが、当の薩摩すなわち鹿児島では、中国より伝わったために、唐芋(カライモ)の方が一般的である。通常サツマイモの呼称は、伝来先の地名ないし、そこでの通称をそのまま使っているようである。サツマイモの原産地は中南米であるとされている。それが東南アジア、中国を経て琉球、そして薩摩に伝播した。沖縄では今でもサツマイモのことをハンスと呼ぶことがある。これは中国語の発音である蕃薯(ファンスー)からきている。

薩摩には17世紀後半から18世紀初頭に伝えられたと言われているが、当時は蕃薯、ハンス、リュウキュウイモと呼ばれていたらしい。記録の上では頴娃郡山川郷の前田利右衛門が宝永2年(1705)、琉球よりサツマイモを持ち帰っことが記されている。また年代的には薩摩とほぼ同時期には肥前(現在の長崎、佐賀)にも伝わっていたらしいが、元来サツマイモが寒さに弱いことや、当時の薩摩藩主が栽培に熱心であったことが理由で、肥前での普及は薩摩に遅れをとってしまった。そしてサツマイモの越冬技術の発達により、サツマイモの栽培は北上を続け、このことがサツマイモの伝承は薩摩からという印象を強め、青木昆陽(1698~1769)が「蕃薯考」を著し、サツマイモの栽培の奨励したことにより、享保の大飢饉では民衆を飢えから救ったとされるに至った。

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西大山駅にて(1)


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西大山駅にて(2)
昨年(2003)の8月に沖縄都市モノレール(愛称ゆいレール)が開業したために、標識を新しいものに作り直した。以前は単に「日本最南端の駅」と書かれていたが、一番上に赤く「JR」の文字が加えられた。日本最南端の地位は「ゆいレール」の赤嶺駅に譲ったが、開聞岳の端正な姿は何ら変わることはない。

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西大山駅には旅ノートが置いてある。これは地元鹿児島の方がボランティアで運営管理しているようで、初めて訪れた人が落書き帳にメッセージを書き残すと、次回訪れた頃には、綺麗にワープロで清書され、別ファイルに綴じられているようだ。このさり気ない気持ちはとてもありがたい。良き旅の思いでとなる。

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開聞駅にて 
以前は駅舎があったようだが、現在はホームだけで閑散としている。ここより徒歩で約20分ほどで2合目の登山口につく。

開聞岳・なのはな号の旅PART1

開聞岳・なのはな号の旅PART3


開聞岳・なのはな号の旅PART1(発見・鹿児島!)

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指宿枕崎線路線図

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九州新幹線開業を控えた西鹿児島駅
平成八年(1966)に新しい駅舎が完成した。当初から新幹線の開通を見越して建てられたもので、デザインは九州新幹線「つばめ」も手掛けた水戸岡鋭治氏。赤い建物の屋上部分に新幹線ホームが設けられている。平成16年(2004)の3月13日の新幹線開業をもって、駅名も「西鹿児島」から「鹿児島中央」へ変更される。現在、駅周辺は駅ビルや地下通路の建設、路面電車の駅側への軌道修正工事等が慌ただしく行われており、これらの完成によって、鹿児島市の中心部の人の流れが大きく変わることが予想される。

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西鹿児島駅を出発する「なのはな」号
左から787系「つばめ」、485系特急「きりしま」、そしてキハ200系「なのはな」。在来線の頭上には新幹線ホームが直角に交差する。

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慈眼寺駅ー坂の上駅間にて 
快晴に恵まれ、一路山川を目指す。遠く左から霧島連山、桜島、高隈連山の稜線が連なっているのがお分かりだろうか?

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快速「なのはな」の車内にて 
小学生だろうか。運転席の方を熱心に見つめている。

日本の最南端部を進むJR指宿枕崎線は、まず西鹿児島と山川の間が昭和11年(1936)に開通、その後昭和38年(1963)に山川と枕崎間が完成し、全長87.9キロの指宿枕崎線が誕生した。海岸線に沿うように錦江湾を南下するこの路線の車窓に映える景色は壮観で、桜島、高隈山系といった大隅の山々を見渡せる。国道226号と平行して走るため、国道沿いに植えられた椰子をはじめとする亜熱帯の木々が、いやが上にも旅人の抱く南国情緒を掻立てることになる。山川駅を過ぎると、やがて開聞岳が進行方向に悠然として待ち構えており、旅のクライマックスを演出する。

ところでJR九州が発表した計画によれば、九州新幹線開業後は在来線の強化策として、 鹿児島中央-指宿で運行中の快速列車「なのはな」に観光用指定席車両を連結し、三両編成の「なのはなDX」とするとのこと。平日3往復、休日4往復させ、特に観光用指定席車両は展望窓や木を使った内装で旅行気分を盛り上げる工夫をするらしい。

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五位野駅にて
「なのはな」号は平成四年(1992)指宿枕崎線に投入された。菜の花を連想させる黄色の配色がとても眩しい。

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五位野駅は国鉄時代には駅職員も常駐し、田舎の風情が残る、いい感じの木造の駅舎であったが、現在はその駅舎も取壊され、無人駅となってしまった。周囲も宅地化が随分進んでいるようだ。平川動物公園最寄りの駅で、歩いて20分ほどの距離である。

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平川駅ー瀬々串駅間にて(1)

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平川駅ー瀬々串駅間にて(2)

三国名勝図会には「瀬々串、上之村の海辺にありて、小村落なり。この浦より眺望すれば、海を隔て、隅州の連山、縹緲として画のごとく。その中に高隈岳秀出し、桜島岳海中にそびえ、烏島、沖小島、その側に侍立し、風帆賈舶、煙際に来往し、風景絶勝なり。」とある。西鹿児島駅よりしばらく内陸を走行していた列車は平川駅を過ぎると、すぐに海岸線に出る。この平川駅から瀬々串駅にかけての沿線はまさに絶景で、海を挟んで、晴天の日には桜島や高隈山系の大箆柄岳や御岳、小箆柄岳等の稜線が連なる。さらに運が良ければ、遥か彼方に霧島連山の高千穂峰や韓国岳等の峰々も確認することができる。殊に上の写真のように線路がやや国道よりも高みにあるため、とても見晴しが良い。「なのはな」号による南薩周遊を是非ともお勧めしたい。

*三国名勝図会 藩命により五代秀尭、橋口兼柄らが編纂。薩摩藩内の名勝を図解入りで解説してある。なお三国とは薩摩、大隅、日向をさす。 隅州-大隅国 縹緲-かすかで、はっきりしない様  風帆賈舶-帆掛けの商船  煙際-かすみの際

開聞岳・なのはな号の旅PART2

開聞岳・なのはな号の旅PART3

2014年6月 4日 (水)

高熱隧道

映画「黒部の太陽」をDVDで観た。この作品は黒部川第四発電所(以下黒四と略す)建設の苦難を描いた大作で、監督は社会派映画の巨匠、熊井啓。1968年に公開され、興行収入が7.9億円となり、大成功を収めた。制作当時、映像文化は映画会社が影響力を誇示しており、東宝から独立した三船敏郎と日活から独立した石原裕次郎は、五社協定の壁に突き当たっていたが、関西電力からの協力を取り付け、最終的には映画会社との和解がはかられ、配給は東宝と日活が担うことになった。

劇中、宇奈月温泉から黒部川第三発電所(以下黒三と略す)まで、関西電力の北川(三船敏郎)等は黒部峡谷鉄道で向かう途中、高熱トンネルを通過するのだが、同行した佐藤工業の森(宇野重吉)から、ここは地獄だったと聞かされる。黒三建設のため設けられた鉄道用のトンネル工事が温泉湧出地帯に突き当たり、日本の建設史上最悪の犠牲者を出した。黒三のことは黒四の建設ほどは知られていない思うので、吉村昭の小説「高熱隧道」に記された史実を追ってみることにした。

日本電力(本社大阪市)による黒三建設が動き出したのは昭和11年(1936)9月からである。戦時下の阪神地区の電力需要に呼応するためであり、国家的なプロジェクトであった。第一工区の阿曾原谷横坑が温泉湧出地帯に及び、岩盤温度が70℃を超える事態となった。更に中心部では100℃を記録し、ダイナマイトが自然発火する恐れが出てきた。法律の規制では40℃が上限だった。

昭和13年(1938)8月23日、岩盤にダイナマイトを装填中に爆発し、8名が死亡した。工事責任者の藤平(架空の人物)は気づいた。「あわてて眼の前の湯の中に揺れている桃色がかったものに視線をもどした。しばらく、それが内蔵のはみ出た胴体の一部であるらしいことに藤平は気がついた。」「根津は、岩肌にへばりついた肉塊をそぎ落とし、湯の底からちぎれた衣服のついている黒いものを抱き上げる。そして、服をかがめてトロッコに近づくと、箱の中へ押しこむ作業をくり返しはじめた。」下線部は高熱隧道 吉村昭 新潮文庫67〜68頁からの引用。尚、根津も架空の人物。

昭和13年12月27日午前3時30分頃、志合谷で泡雪崩がおきた。鉄筋コンクリート5階建ての宿舎は2階以上は跡形もなく消えてしまった。泡雪崩は宿舎の北東700メートルの峻険な山の傾斜で発生した。雪庇が1000メートルにわたって大崩落し、泡雪崩を発生させた。犠牲者は84名に及んだ。

富山県や県警本部の度重なる工事中止勧告にもかかわらず、現実に工事が中止されることはなかった。志合谷の犠牲者の遺族へ天皇陛下より御下賜金の下附決定がなされた。これは中央政府による絶対的な工事の続行を意図し、地方の行政機関が容喙できる事柄ではなかった。大日本帝国憲法下の日本人は「臣民」と呼ばれた。そして天皇の統帥権を隠れ蓑にして、中央政府すなわち軍部が、過酷なまでに日本人を隷従させ、大戦を指揮した。

黒部第三発電所建設工事は、仙人谷ダム完成を最後に、昭和15年11月21日に完工。全工区の犠牲者は三百名を越えた(中略)この建設工事を計画し指導した日本電力株式会社は、この難工事を最後に、戦争遂行のために設けられた電力国家管理法にもとづいて解体され、大半の土木技術者たちは国内・外に散った。」下線部は高熱隧道 吉村昭 新潮文庫219〜220頁からの引用。

世の中にはアメリカからの押し付けを根拠として改憲を論じる人がいる。既に記したように、大日本帝国憲法下では、国民、否、臣民の不完全な人権は、軍国主義者によって戦時下を理由に蹂躙された。敗戦後、日本人は「民主主義」とか「自由主義」とかの観念を知らなかったので、アメリカの影響の強い民主的、自由主義的な日本国憲法の発布を心から喜んだ。ところが勝者によってもたらされた基本的人権を、改憲論者はあたかも自前で導きだした、当然の権利として捉え、自主憲法の制定を標榜する。

平成24年に自民党が著した「日本国憲法改正草案」にどれほどの人が眼を通したのだろうか?自衛隊は名称を「国防軍」に改められることを知ってました?私の個人的な考えだが、憲法改正が困難な状況下で、安倍内閣は「自衛権」を解釈論で乗り切ろうと考えているように見える。民主主義国家においては、国民が賢くないと、単なる衆愚政治に陥る。

余談だが、隧道(ずいどう)はトンネルを指す言葉だが、元々は棺を埋めるために、平地から墓穴に通じる斜めの道を意味した。◯◯隧道と記された古いものを時々目にするが、その辺りを忌み嫌って、今はトンネルと表記するようになったのだろうか?高熱隧道の犠牲者はまさに「隧道」を使って外に運び出された。

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