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2014年6月25日 (水)

笠沙・坊津PART3(発見・鹿児島!)

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博多浦の江篭潭(エゴンタン)坊津町久志
江篭潭とは潮の干満を利用した浮ドッグのことで、満潮時にこの中に船を停泊させ、両岸より綱を張って船にきつく結び、干潮時に船が宙釣りになることを利用して船底の船虫を駆除するものだったらしい。貿易をする以上、船の修理は欠かせないものであり、原理は単純だが成果をあげるに充分であったようだ。

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唐人墓 
17世紀頃、薩摩と明との間での交易は盛んに行われていた。現在でも博多浦には唐人町の地名や唐人墓が残っており、かつて唐人がここに居住していたころの繁栄を伺い知ることができる。

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泊浦

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輝津館(坊津町坊) 
老朽化した歴史民俗資料館を改築し、平成16年に開館。坊津の貴重な文化遺産を保存し、紹介することを目的に建造された。貿易の歴史や一乗院に関連する資料など、約3千点が収蔵、展示されている。

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双剣石 
平成13年に国の名勝に指定された。三国名勝図会にも紹介されている古くからの景勝地である。

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梅崎春生文学碑 
第2次世界大戦下、梅崎春生は、ここ坊津で海軍の通信下士官として、暗号文の解読の任務にあたっていた。その希有な体験をもとに描かれたのが、彼の遺作となった小説「幻化」である。精神病を患っていた主人公の「五郎」は、東京の病院を抜け出し、戦時下軍人として過ごした坊津を、20年ぶりに訪れたのだった。あの岩の島の名は、何だったかしら」「双剣石よ」二つの岩がするどくそそり立ち、大きい方の岩のてっぺんに松の木が一本生えていた。その形は二十年前と同じである。忘れようとしても、忘れられない。 下線部は梅崎春生著「幻化」講談社文芸文庫245頁~246頁からの引用である。

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密貿易屋敷跡(旧倉浜荘)
坊津は幕府の眼の届かない遠方の地であったため、鎖国時代においても密貿易が途切れることはなく、巨万の富を得る豪商が出現した。

寛永16年(1639)、徳川幕府は完全な鎖国政策を敷いた。その一方で薩摩藩は幕府によって琉球口貿易が認められていたので、琉球を介して明との貿易を行うことができた。薩摩藩の領内ではしばしば唐船が漂着するため、これらに備えて唐通事という通訳を領内に待機させた。そして時に唐船の漂着を装っての貿易もかなり行われたようで、琉球口貿易を口実としての密貿易と同じく、これらの貿易は藩の財政を支えるのに多いに役立ち、幕末から明治維新に渡る動乱期の薩摩藩の活躍を後押しする力となった。そのような状況のもと、坊津は陬遠の地であることを最大限に利用することで繁栄を極めたのである。

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一乗院跡 
現在は坊泊小学校となっている。三国名勝図会に描かれた壮大な仏閣を想像することは甚だ困難で、一乗院はまさに明治の廃仏毀釈によって忽焉と消滅してしまったと理解する他ない。

一乗院(沿革)
三国名勝図会によれば、「敏達天皇12年(583)、百済の日羅という僧が来日して、各地を遍歴し、坊津に上の坊、中坊、下の坊といふ坊舎仏閣を営造し、自ら阿弥陀像三体を刻みて、三坊に安置し、龍厳寺と号した」とある。さらに「長承3年(1133)、11月3日、鳥羽上皇院宣を下し、当院を以って紀州根来寺の別院とし、西海の本寺とする。また上皇の御願所として如意珠山一乗院の勅号を賜う」とも記されている。一乗院は西国でも有数の寺院として知られるようになった。

ところで根来といえば戦国時代の勇猛果敢な根来衆のことが思い浮かぶ。ポルトガル伝来の鉄砲一挺を手に入れた根来は、この西洋の最新の火器を大量生産するようになり、鉄砲を装備した無敵の根来衆を組織するようになった。彼らは鉄砲を売りさばく死の商人として全国を行脚し、巨万の富を得た。しかしそのことは皮肉にも織田信長や豊臣秀吉の全国統一を早めることとなり、根来衆も天正13年(1585)、秀吉によって根来寺ともども滅ぼされるにいたった。このとき、多くの僧が一乗院を頼りに落ちのびてきたといわれているのである。

その後は、島津家中興の祖、島津忠良(日新)をはじめ、貴久(15代)、義久(16代)、光久(19代)らの歴代の島津藩主によって一乗院は手厚く保護されることになる。特に貴久は一乗院が後奈良天皇の勅願所になることに尽力し、鳥羽上皇より勅号を賜って以来の誉れを享受することになった。

廃仏毀釈
明治政府は明治元年(1868)神仏分離令を発布した。江戸時代からの仏教の国教化を否定し、神道国教化をすすめ、その上で神社の中から仏教的色彩を排除しようというものである。これまでの寺院の配下におかれていた神官たちも神仏分離にとどまらず、廃仏毀釈運動を展開し、全国各地で廃仏が行なわれた。廃仏毀釈はもともと江戸時代に僧侶が檀家を中心とした基盤の上に立っていため、本来の信仰や教義、修行に裏づけされた威厳を失い、堕落していったのが原因と見られている。薩摩藩内にあっても1616あった寺は残らず解体され、およそ3000人もの僧侶が還俗していった。無論、一乗院も例外ではなかった。鑑真大和上が日本において仏教の真の戒儀を整えるという大義を胸に、坊津の地に足を踏み入れてから1100年余り、皮肉にも仏教の戒儀の堕落を原因とする廃仏毀釈の大波に一乗院は呑まれていったのである。


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耳取峠より開聞岳を望む。
ここから開聞岳と枕崎の市街地を一望できる。国道226号に沿って薩摩半島西南の笠沙、坊津を巡った旅もここで終わりとする。

撮影2001年12月、2005年2月

(参考資料)
鹿児島県の歴史 原口泉 永山修一 日隈正守 松尾千歳 皆村武一 山川出版社(1999)
古事記 次田真幸(全訳注) 講談社(1977)
三国名勝図会(復刻版) 編纂者 五代秀尭 橋口兼柄 監修 原口虎雄 青潮社(1982)
鹿児島の本格焼酎 鹿児島県本格焼酎技術研究会 春苑堂出版(2000)
酒の科学 野尾正昭 講談社(1996)
坊津(遣唐使の町から) 森高木 春苑堂出版(1992)
天平の甍 井上靖 新潮文庫版(1964)
幻化 梅崎春生 講談社文芸文庫(1989)
日本の歴史(12)江戸開幕 藤井譲治 集英社(1992)

笠沙・坊津PART1(発見・鹿児島!)

笠沙・坊津PART2(発見・鹿児島!)


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