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2014年7月

2014年7月28日 (月)

嘉例川駅(発見・鹿児島!)

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嘉例川駅全景

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嘉例川駅(霧島市)2004年4月撮影

昨年(2003)の1月、開業100周年を迎えた肥薩線の嘉例川駅は、県内最古の駅舎であり、今年の3月のJR九州のダイヤ改正によって、特急「はやとの風」が停まる駅として新たに脚光を浴びている。この鄙びた木造駅舎そのものの雰囲気も然ることながら、山深い、緑豊かなこのロケーションに魅せられてしまう。駅舎の中でしばらくベンチに腰掛けていると、野鳥のさえずりが自然と聴こえてくる。国道からだいぶ外れているので、喧噪とは縁がない。無人駅であるにもかかわらず、かつての鹿児島本線としての品格が漂っているのを感じるのは私だけであろうか?ホームの土台に眼を向けると、それは堅固な自然石を積み上げて造られているのが分かる。そんな明治の職人の丁寧な仕事ぶりが伝わってくる、この駅の清洒な佇まいが心地よい。

2014年7月24日 (木)

風力発電(発見・鹿児島!)

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南大隅ウインドファーム根占発電所
2003年の3月に10基の風力発電施設が根占町(現南大隅町)に完成。羽の長さは30M、発電機の高さは約60Mで、1基あたりの発電能力は1,300kw。10基のトータルが13,000kwとなり、6,500世帯分の電力を供給することが可能である。事業主の南九州ウインド・パワー株式会社が、向こう15年間、九州電力に全ての電力を売電することになっている。尚佐多町(現南大隅町)にも同社の風力発電施設が、今年(2004)の3月に10基完成、操業を開始している。

2003年7月撮影


2014年7月17日 (木)

肥薩線PART3(発見・鹿児島!)

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丸池湧水(湧水町)
吉松で「いさぶろう・しんぺい号」に別れを告げ、隼人行きの普通列車に乗込むと、次は栗野駅に停車する。下り方面左側の丸池湧水が、駅のホームからも確認できる。ここは「日本名水百選」にも選ばれており、1日3万トンの湧水量を誇る。

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大隅横川駅

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嘉例川駅(1)

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嘉例川駅(2)
大隅横川駅も嘉例川駅も鹿児島本線(現肥薩線)開通当時からの駅舎であり、鹿児島県内最古のものである。肥薩線は現在も電化されていないので、これらの駅舎は、戦前を舞台にしたテレビや映画のロケにそのまま無理なく使えそうだ。

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隼人駅 
現在ここが肥薩線の終点であり、一日がかりの旅もようやく終わりを迎えた。

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隼人塚の四天王像(霧島市) 
隼人塚は石塔3基と四天王像4体で構成されており、大和朝廷との戦いに破れ、首を切られた隼人の霊を慰めるために平安時代後期に作られたといわれている。大正10年、国の史跡に指定された。

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隼人塚史跡館(霧島市) 
平成13年8月に隼人塚に隣接して開館。館内には隼人塚に関する資料はもとより、南九州一帯の歴史や神話に関するパネル、平安期の石仏等が展示されており、「古事記」や「日本書紀」にも描かれた、古代の隼人族の実像にせまることができる。尚、隼人塚および隼人塚史跡館は隼人駅より歩いて10分足らずのところにあるので、やはり足を運んでみたいものである。

神話の中の隼人
江戸時代の国学者、本居宣長の説によれば、隼人とはハヤブサのように敏捷で、勇猛果敢な人々のことを指した。隼人は四世紀から五世紀にかけて、南九州に登場した部族であり、彼等が文献に登場するのは「古事記」が一番最初だとされている。上巻の「海幸彦と山幸彦」の話の中で、兄であるホデリノ命(海幸彦)が弟のホヲリノ命(山幸彦)に「僕は今より以後、汝命の昼夜の守護人となりて仕へ奉るなり。」と服従を誓う場面がある。これはホデリノ命の子孫である隼人がホヲリノ命、即ち朝廷に従属していく過程を物語の形式で説明したものとされている。この海幸山幸の物語はメラネシアの女人島説話、そしてインドネシアや中国に伝えられている話とも共通しており、これら南方の国々より島々を経由して隼人に伝えられたと考えられている。

隼人の反乱
大宝元年(701)に大宝律令を完成させた大和朝廷は、律令国家体制の確立を押し進めた。大宝2年、政府による戸籍の作成と郡司の派遣に対する反乱が南九州でおこった。戸籍の作成によって名前を相手に知られることは服従を意味し、それを嫌ったゆえの反乱であったと考えられている。また養老4年(720)にも朝廷と隼人のあいだで大規模な争いが生じた。隼人が大隅国守陽侯麻呂を暗殺したのが理由とされ、朝廷は万葉集の歌人としても名高い大伴旅人を征隼人時節大将軍とする兵を派遣した。そしてこの戦いの終結は、そのまま隼人の敗北を意味し、以後朝廷の支配が次第に南九州全体に及ぶこととなった。

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夕暮れの桜島と日豊本線(鹿児島市の磯海岸付近にて) 
隼人から先は、日豊本線により鹿児島までの帰路につく。桜島を中心に見据えながら、錦江湾を南下する。車窓に映る風景はとてもダイナミックであり、ここが、かつて鹿児島本線と呼ばれていた時代に想いを馳せるのも良いものだ。

エピローグ
現在、鹿児島県内では平成16年の九州新幹線の部分開業を目指した工事が、急ピッチで進められている。遂にわが町にも、といった想いがある一方、その代償として鹿児島本線、川内ー八代間の第三セクター化を余儀無くされている。第三セクター化されれば、現在の電化されている路線を維持するのは困難であろう。平成9年のダイヤ改正で特急「はやぶさ」が熊本止まりとなった今、西鹿児島駅に乗入れている鹿児島本線経由の長距離列車は、特急「つばめ」と寝台特急「なは」の2種類のみとなっている。「つばめ」の役割は新幹線に置換えられることになるにしても、長距離列車に揺られて、ゆっくり薩摩路を旅することは今後かなり難しくなるに違いない。

肥薩線は昭和60年の第3次廃止路線の対象に上がりながらも、関係者の努力により、現在まで辛うじて廃線を免れている。幸いにして肥薩線は現存している駅舎やトンネル、軌道をはじめとした、施設の管理状態が極めて良好である。特に人吉ー吉松間は、わが国の鉄道の歴史を語る上で欠くことのできない、保存鉄道の役割を十分に果たしている。また、この鉄道は実際、熊本、宮崎、鹿児島の南九州三県をまたがるように敷設されており、沿線は日本史を彩る様々な出来事の舞台となってきた。今回、私なりに肥薩線の魅力を、その沿線にある希有の素材と結び付けて、紹介してみたが、あまりマニアックな鉄道談義に片寄ることのないよう、注意を払った。

肥薩線がふたたび数多の人びとに知れるところとなり、それによって近隣の地域が活気を取り戻すことを一個人として、心より願わずにはいられない。

2001年6月、8月撮影

(参考資料)
鹿児島県の歴史 原口泉 永山修一 日隈正守 松尾千歳 皆村武一 山川出版社(1999)
街道をゆく3 陸奥のみち、肥薩のみちほか 司馬遼太郎 朝日新聞社(1978)
古事記 次田真幸(全訳注) 講談社(1977) 
鹿児島の鉄道・100年 久木田末夫 春苑堂出版(2000)
かごしま20世紀 山河こえて「鹿児島線を引戻す」 南日本新聞社(2000)
隼人町の歴史 隼人町教育委員会(1996)
日本の歴史(17)「日本近代の出発」 佐々木克 集英社(1992)
詳細日本史(改訂版) 石井進 笠原一男 小玉幸多 笹山晴生 山川出版社(1997)

*お断り このサイトは九州新幹線開業前(2001年)の状況を前提とした記述になります。


肥薩線PART1(発見・鹿児島!)

肥薩線PART2(発見・鹿児島!)

肥薩線PART2(発見・鹿児島!)

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運転手はガイドを兼務しており、鉄道ファンのマニアックな質問にも丁寧に応えてくれる。

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大畑駅でのスイッチバックを終えると、列車はやがてループ線にさしかかる。これから矢岳駅(海抜537M)までの、いわゆる矢岳越が続く。

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人吉市SL展示館(矢岳駅) 
観光列車「いさぶろう・しんぺい号」を利用した場合、ここで時間を割いて館内を案内してもらえる。展示されているD51は実際に、この路線で現役を終えたものである。 

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矢岳第一トンネル(全長2,096M)城壁を彷佛させる石積みの堅固な造り。この路線の工事区間中、最大の難所の一つであった。上部に「天険若夷」の文字。これは開通当時の逓信大臣、山縣伊三郎によるもの。このトンネルを抜けると、日本三大車窓のパノラマが広がる。

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あいにくの天気。晴れれば、霧島連山をはじめ、桜島まで見渡せる。

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「いさぶろう・しんぺい号」の車内の様子 
ここで列車は一時停止。確実にシャッターチャンスを狙える。この先、真幸駅でもう一度スイッチバックがあり、それを終えると、列車は次第に高度を下げ、やがて吉松駅に到着する。

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吉松駅到着。「いさぶろう・しんぺい号」とは当駅でお別れ。

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吉松駅より、上り方面を見渡す。
この先、右が吉都線、左が肥薩線となる。吉松駅の敷地はとても広く、往時の隆盛が偲ばれる。最盛期には、8千余のこの町の人口の3割(約2,500人)は国鉄関係者であったというから驚きだ。

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吉松駅
この何気ない風景が鉄道ファンにはたまらない。

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C55(吉松駅) 
改札口を出ると、駅の左手に隣接して保存されている。C55はC54の改良型として昭和10年から昭和12年にかけて62両が製造された。

戦後の混乱の時期を経て、鉄道も高速化の時代を迎える。昭和34年にはディーゼル準急「えびの号」が誕生。宮崎発、吉松経由、熊本行きの列車は、翌年博多まで延び、この地域の利便性が向上した。昭和41年には急行に格上げ、昭和49年には特急「おおよど号」の開設によって、宮崎ー博多間は6時間で結ばれることとなる。しかし、ほぼ時期を同じくして完成した鹿児島新空港や九州自動車道の出現によって利用者数は、一転減少にむかってしまう。そして昨年(平成12年)の3月の「えびの号」を最後に、吉松を経由する急行列車は全て姿を消し、普通列車のみが残される形になった。その間、わずか40年余り。時代の趨勢とは言え、余りにも短すぎた「えびの号」の誕生から消滅までを考えるとき、文明の発展の度合いを制御できない、人間の浪費の性向を嘆かずにはいられない。

肥薩線PART1(発見・鹿児島!)

肥薩線PART3(発見・鹿児島!)


肥薩線PART1(発見・鹿児島!)

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JR八代駅を発車する特急つばめ

四時間足らずの博多発、西鹿児島行きの特急つばめの旅も、程なく終わりを迎えようとしている。もしあなたの旅が先を急ぐものでなければ、ここ八代から肥薩線に乗換えてみるのも面白いのでは。野趣溢れる景観、そして鄙びた駅舎。あたかもSLの時代にタイムスリップしたかのような錯角をおぼえる。100年の時を越えて、存在そのものが奇蹟に近い肥薩線。少し、ゆとりのある自分に浸ってみてはいかがですか。
*お断り 以上は九州新幹線開業前(2001年)の状況を前提とした記述になります。

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球磨川を上る「急行くまがわ」(1)

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急行くまがわ(2)

八代ー人吉間が部分開通した明治41(1908)年当時、日本は日露戦争に勝利してまもなくの頃であり、満州に関東都督府を、植民地化した韓国に朝鮮総督府を置き、大陸への領土拡大を進めていた。西園寺公望を総裁とする立憲政友会は鉄道や港湾の充実を掲げ、地方有力者の支持を得て躍進し、政権を担った時代でもあった。産業の上では、日本においても本格的な産業革命がはじまり、紡績業を中心に輸出が増加し、明治42年には生糸の輸出量は清を抜いて世界一となっていた。日本では、もともと華族を中心にした民営の鉄道が発達し、営業キロ数も民が官を上回っていたが、軍事的理由と経済的理由の両面から、明治39年に鉄道国有法が公布され、主要な幹線は国有とされるに至った。そのような背景の下、鉄道の建設はまさに国家プロジェクトであり、八代ー人吉間開通の翌年、残された人吉から吉松までの間が完成し、首都東京と鹿児島の間がようやく一本の線で結ばれることとなった。


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角櫓、長塀、多門櫓(人吉市) 
球磨川のほとり、人吉城跡に復元された。ちょうど胸川が球磨川に合流する地点。

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青井阿蘇神社(人吉市) 
人吉を治めた相良氏代々の氏神として祭られてきた。司馬遼太郎の「街道をゆく(肥薩のみち)」の中でも「桃山風の楼門」という表現で詳しく紹介されている。尚、人吉城跡も青井阿蘇神社も駅からほど近く、列車の待ち時間を利用して足を運ぶとよい。

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人吉駅を発車する「いさぶろう・しんぺい号」
人吉ー吉松間を毎日一往復している観光列車。一部が座敷仕様になっている。13:30発の列車は球磨川を横切り、一路大畑駅を目指す。

神話の時代より南九州の民を指して、しばしばクマソと呼ぶことがある。「熊曽」「熊襲」「球磨曽於」などと文献によって表記の仕方には差異があるが、いずれにしても古事記のヤマトタケルの征西説話に登場する、クマソの首魁クマソタケルのような、獰猛な動物的イメージに近い人物像を表現しようとしている点では共通している。古事記が著された7~8世紀においては未だ大和朝廷の勢力が不完全であり、国家統一の必要性を、神話を媒介に昇華することで説いたとされている。

人吉は歴史のある町である。この地を治めた相良氏は薩摩の島津氏と並んで、鎌倉の時代より明治維新まで、約700年も続いた最古の家柄である。加藤清正、小西行長が肥後の地を任されたのは豊臣秀吉の時代であり、更に清正の子、加藤忠広が徳川家光によって改易を申し渡され、その後に豊前小倉の細川忠利の肥後転封が決定した。そのあいだも相良氏は、豊沃な人吉の地にあって連綿と代を重ね続けたのであり、そのことを考えあわせても、如何に相良氏と人吉との結びつきが深いかが理解できる。

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大畑駅(1)

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大畑駅(2)
列車は暫く停車し、小休憩ができる。鉄道写真のマニアだと、もう少し時間が欲しいかもしれない。

肥薩線は九州山地最南端部を南北に縦断するため、大畑、矢岳、真幸の各駅は奥山の真只中に位置する。大畑駅最寄りの国道221号は旧来より加久藤越と呼ばれ、藩政時代には、薩摩と肥後を峻別する国ざかいであった。西南戦争で西郷隆盛率いる薩軍も、ここを越え、人吉入りを果たしている。現在は立派な国道として整備され、途中の人吉ループ橋は新たな名所となっている。車で大畑駅まで足を運んでみたのだが、少し骨が折れた。221号沿いにある駅への標識に誘われるがままに交差点を曲がると、いよいよ道は狭くなり、この先、本当に駅に辿り着くことができるのか、心配になる。九州自動車道の立派な高架橋を横目に、広々とした梅林を抜け、更に上ると、やがて木造の古びた駅舎が前方に姿をあらわす。なるほど、現役の駅舎が、そのまま生きた博物館として、そこに納まっているような体裁である。一瞥したところ、民家はなく、ただ山の静けさだけを感じる。悪くない。来て良かった。

肥薩線PART2(発見・鹿児島!)

肥薩線PART3(発見・鹿児島!)

2014年7月 7日 (月)

唐船峡のそうめん流し

鹿児島を離れるまで、私は「そうめん流し」と「流しそうめん」は別物だとは知らなかった。大きな竹を半分に割り、節の部分をきれいに削って、雨樋のように仕上げて、高いところから低い所へ流して、箸ですくい取る光景を初めて見たとき、他所では「面倒なことをするな」と思った。しかしこれが一般的な流しそうめんだったのだ。

流しそうめんの方が風流で、それはそれで良いのかもしれない。だが、水流を利用した回転式のそうめん流しの方が身近だし、楽だし、美味しい。久方ぶりに、元祖そうめん流しの指宿「唐船峡」に足を運び、冷たいそうめんに舌鼓を打った。

そうめんは島原産のものを使う。おつゆは唐船峡のオリジナルなのだが、鹿児島県下ではスーパーで普通に売っている。鰹だしが効いててとても美味だ。そうめんも腰がある。とにかく雰囲気が良いので、立ち寄られることをお勧めする。

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唐船峡の入り口 
あいにく開聞岳の山頂は雲で覆われていた。iPhoneで撮影。


2014年7月 6日 (日)

肥薩おれんじ鉄道PART3(発見・鹿児島!)

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川内川鉄橋を渡り切ると、肥薩おれんじ鉄道の終点川内駅は間近い。川内から鹿児島中央駅方面へは再びJR九州の列車を利用することになる。

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泰平寺(薩摩川内市、川内駅下車) 
天正15年(1587)豊臣秀吉は九州征伐に赴き、5月8日、島津義久は降伏の意を表すため、剃髪し、川内の泰平寺で秀吉に謁見した。秀吉は降伏を受け入れ、義久に薩摩国を安堵した。弟の義弘には大隅国、義弘の嫡男久保には日向国の諸県郡を与えた。泰平寺は明治の廃物希釈によって廃寺となり、1923年に復興されたものである。

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豊臣秀吉・島津義久和睦像 
隣接する泰平寺公園には島津義久が豊臣秀吉に和睦を申し入れたときの様子を再現した像が建立されている。

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川内駅でJR線に乗り換える。
2008年のダイヤ改正で、土日限定で鹿児島中央駅に乗り入れる快速列車「オーシャンライナーさつま」が登場したが、平日は従来通りJRの列車を利用することになる。

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JR串木野駅に近郊型電車817系がまもなく到着する。

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JR九州817系(鹿児島中央駅にて)
八代駅で肥薩おれんじ鉄道に乗車し、途中JR線に乗り換え、終点鹿児島中央駅に到着した。時間の経過を気にしないローカル線の旅はいいものだ。

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鹿児島中央駅と駅ビル「アミュプラザ」

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若き薩摩の群像 
鹿児島中央駅東口を出ると、大きなモニュメントが眼に入る。これは1982年に著名な彫刻家、中村晋也氏によって制作されたもので、日本の近代化の礎となった若き薩摩武士17人の銅像である。

薩摩藩派英留学生(若き薩摩の群像のモデル)
文久3年(1863)薩摩ではイギリスとの間で薩英戦争がおこった。前年に起きた生麦事件の報復のため、イギリス艦隊が攻め入ってきたのである。このとき薩摩藩は西欧列強の近代的な軍事力を目の当たりにして、ただ驚愕するしかなかった。それまで薩摩も攘夷一辺倒の思想が支配的で、現実的な外交感覚を持ち合わせていなかったのである。

藩内でも積極的に西欧文明を取り入れようという気運が高まり、慶応元年(1865)、新納久脩等の3人の使節団と若き薩摩藩留学生15人がイギリス向け、串木野郷羽島を船出した。彼等はサツマステューデントと呼ばれ、西欧での先進的な知識を糧に、その後の日本において、指導的な役割を担った。メンバーの中には初代文部大臣の森有礼、東京大学の全身である東京開成学校初代校長の畠山義成、大阪商工会議所を創設し、西の渋沢栄一と呼ばれた五代友厚、サッポロビールの前身となる札幌冷製麦酒創設に携わった村橋久成、イギリス留学を経てアメリカへ渡り、カリフォルニアでワイン工場の経営に乗り出し、カリフォルニアのぶどう王と呼ばれた長沢鼎などがおり、錚々たる顔ぶれであった。

1999年1月、2001年12月、2004年10月、2005年1月撮影

第三セクター方式の肥薩おれんじ鉄道は、開業当初から経営が難しいことは予想されていた。現状を眺めても、県や沿線の自治体の援助なしには路線の永続的な営業はおぼつかない。営業益の内訳は定期券利用者と観光客の乗車によるものが全体の9割に及ぶ。ただ路線の存続は沿線自治体の意思でもあるので、自治体が路線の維持に関わり合う必然性がある。

観光収入の増加が利益に直結するのは明白だ。営業的な戦略は活発で、利用者の利便性を図るため「たのうら御立岬公園駅」などの新駅を増設したり(2005)、「銀河鉄道999」や「くまもん」のラッピング列車を運行(2010/2012))、観光列車「おれんじ食堂」「おれんじカフェ」を新設した(2013)。水戸岡鋭治氏のデザインによる改築された「阿久根駅」は話題性に富んでいる(2014)。

昨年(2013)の10月よりJR九州によって営業が開始されたクルーズトレイン「ななつ星in九州」は高額な料金にもかかわらず、乗車券の入手が困難な、大人気を博している。要は列車による移動が、人を運ぶという物理的な価値から、車窓からの美しい景観や、美味しい食事、乗務員や同乗者との温かい交流などを慈しむ重畳的な価値へと進化を遂げているのだろう。肥薩おれんじ鉄道の伸び代はまだまだあると考える。成長の余地は十分残っているはずだ。(2014年7月)


(参考資料)
鹿児島県の歴史 原口泉 永山修一 日隈正守 松尾千歳 皆村武一 山川出版社(1999)
鹿児島県の歴史散歩 鹿児島県高等学校歴史部会 山川出版社(1992)
熊本県の歴史散歩 熊本県高等学校社会科研究会 山川出版社(1993)
鹿児島の鉄道・百年 久木田末夫 春苑堂出版(2000)
徳富蘇峰 米原謙 中央公論新社(2003)
山本博文 島津義弘の賭け 読売新聞社(1997)
若き薩摩の群像 門田明 春苑堂出版(1991)
薩摩人とヨーロッパ 芳即正 著作社(1982)
いで湯の国鹿児島 黒川達爾雄 春苑堂出版(1997)
三国名勝図会(復刻版) 編纂者 五代秀尭 橋口兼柄 監修 原口虎雄 青潮社(1982)

肥薩おれんじ鉄道PART1(発見・鹿児島!)

肥薩おれんじ鉄道PART2(発見・鹿児島!)


肥薩おれんじ鉄道PART2(発見・鹿児島!)

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イベント兼用型車両「おれんじちゃん」
JR九州新幹線出水駅に隣接した旧JR九州鹿児島本線出水駅の敷地に肥薩おれんじ鉄道の車両基地がある。写真は整備庫にて待機中の「おれんじちゃん」。車両は貸し切ることができる。

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出水市ツル観察センター(出水市、出水駅下車) 
毎年、出水には越冬のために、中国やロシアから一万羽を超えるツルが飛来する。観察センターはそれに合わせて11月から3月まで営業し、ボランティアのガイドによるツルについての詳しい説明を聞くことができる。

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マナヅルの一団
ツルは夜が明けると、餌を求めてねぐらを一斉に飛び立つ。

出水平野のツル
出水平野で越冬するツルはほとんどがナベヅルとマナヅルであるが、ナベヅルの全体の生息数は約1万羽で、その8割までもが出水に飛来する。そのため、近年国境を越えて伝染する鳥インフルエンザ等の影響による種の絶滅を危惧して、飛来地を分散して、伝染病の蔓延の危険負担を軽減する試みが検討されている。なお、ナベヅルとマナヅルの他に、クロヅル、ソデグロヅル、カナダヅルなどの希少種のすがたを観ることもできる。

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出水武家屋敷群(出水市、出水駅下車) 

薩摩藩の外城制度
江戸時代、島津氏は領地を100を超える区画に分割し、そこに外城衆中と呼ばれる士族を配置し、それぞれの行政区で行政と防衛の任につかせた。これを外城制度という。外城には地頭所と呼ばれる藩の直轄地と私領とあり、肥後との国境のある出水は藩の直轄地として、重要な防衛上の役割を担っていた。その外城の中心地に麓と呼ばれる武士階級の居住地があり、出水麓地区は現在でも石垣に囲まれた瀟洒な武家屋敷が立ち並び、往時の面影を垣間見ることができる。

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牛ノ浜駅(阿久根市)
国道3号線をはさんで向かいに東シナ海が望める。

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川内(高城)温泉(1)薩摩川内市、西方駅、川内駅下車

古くから湯治場や保養地として利用されてきた。文和年間(14世紀)に発見されたとも、約400年前に宣教師により発見されたとも言われている。西郷隆盛がしばしば利用したところとして知られている。現在は地元の人々を中心に、手軽な保養地として利用されている。湯布院や黒川のような華やかさはないが、鄙びた風情のためか、その気軽さがかえって心地よい。日本の名湯百選に名を連ねている。尚西方駅、川内駅からバス(南国バス)も運行されているので利用すると良い。

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川内(高城)温泉(2)

三国名勝図会にも「温泉地頭舘亥方凡そ二里、麦之浦村湯田に温泉二カ所あり、その間相距ること二町余にて、二カ所共に湯性灰汁気に硫黄気を兼ぬ、疝癪及び筋骨の拘攣、湿気、上気等の諸痾を癒す神効あり、遐邇の浴客絶えることなし」とある。往時も湯治場として賑わいを見せていたことが偲ばれる。
*三国名勝図会 藩命により五代秀尭、橋口兼柄らが編纂。薩摩藩内の名勝を図解入りで解説してある。なお三国とは薩摩、大隅、日向をさす。

肥薩おれんじ鉄道PART1(発見・鹿児島!)

肥薩おれんじ鉄道PART3(発見・鹿児島!)


肥薩おれんじ鉄道PART1(発見・鹿児島!)

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新八代駅に到着する「リレーつばめ」 
九州新幹線の部分開業に合わせて、2004年3月から2011年3月にかけて博多ー新八代間はリレーつばめ787系が運行した。

平成16年(2004)3月に新八代駅ー鹿児島中央駅間で九州新幹線が部分開業したため、それまで4時間近く要していた博多駅ー鹿児島中央駅間が、2時間20分ほどに短縮された。新八代を出発した新幹線「つばめ」は、残り40分ほどで鹿児島中央駅に着くことになる。せっかくの南九州の旅。不知火海や天草の島々、そして穏やかな東シナ海に眼を遣りながら、のんびりと各駅停車の肥薩おれんじ鉄道の旅を満喫してはいかがだろう。
*お断り 以上は新幹線部分開業当時の状況を前提とした記述になります。

昭和2年(1927)の鹿児島本線の開業にともない、それまでの内陸部を走る鹿児島線は肥薩線と改められた。鹿児島本線は明治44年(1911)に工事が着工した、鹿児島ー東市来間が1913年開通、1914年には川内まで延びた。1926年には水俣まで、そして1927年に川内ー八代間の完成で、門司-鹿児島間(399.5キロ)が全線開通した。

九州新幹線新八代ー鹿児島中央間の部分開業にともない、JR九州の八代ー川内間の営業権は「肥薩おれんじ鉄道株式会社」に譲渡された。これは熊本県、鹿児島県、沿線の10市町等が出資し、第三セクター鉄道会社として平成14年10月31日に九州新幹線開業に先んじて設立された。新幹線の開業にともない、特急「つばめ」や寝台列車「なは」といった長距離列車のサービスが終了し、この区間はJR貨物とローカル列車に利用が限られることとなったためである。

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八代駅行きのJR九州815系

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肥薩おれんじ鉄道のりば(八代駅)
JR線と同じホームに隣接している。朝夕の通勤通学時にはかなり混雑する。

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肥薩おれんじ鉄道のシンボルマークは建築家川西康之氏のデザイン。二つのオレンジは車輪を、更に熊本と鹿児島の両県を表している。緑の葉は路線図のかたちを意味するそうだ。

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上田浦駅ホームにて

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上田浦ー肥後田浦 
肥薩おれんじ鉄道の沿線で、最も優美な車窓を楽しめる区間。軌道が海岸線ぎりぎりまで迫り出しているために、不知火海(八代海)を挟んで、天草の島々を眺望できる。殊に夕景は素晴らしく、夕陽に映えた波打ち際の陰影がノスタルジックな雰囲気を醸し出す。鄙びた漁港の防波堤は丁寧に自然石を積み上げて造られており、都会的な喧噪とは無縁で、ゆったりとした時間の流れが感じられるのは肥薩おれんじ鉄道のまさに醍醐味である。

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野坂の浦(芦北町、佐敷駅下車)御番所の鼻と呼ばれる海辺沿いに長田王の万葉集歌碑がある。「芦北の野坂の浦ゆ船出して水島へ行かむ波立つなゆめ」とある。

Hisatsu12
徳富蘇峰、徳富盧花生家内の資料館(水俣市、水俣駅下車)
水俣は徳富蘇峰、徳富盧花の生誕の地である。水俣市が平成2年から復元工事をおこない、素晴らしい徳富兄弟の資料館として再生した。 とても親切に屋敷内を案内してくれるので、是非立ち寄ってもらいたい。

徳富蘇峰(1863-1957) ジャーナリスト、評論家 本名は猪一郎。肥後水俣の郷士、徳富一敬の長男。熊本洋学校に入学の後、同志社英学校で学ぶ。1881年(19歳)に熊本で大江義塾を開く。1886年(23歳)「将来之日本」が評判になり、上京する。1887年民友社を創設する。同年アメリカの雑誌、The Nationにちなんで「国民之友」を発刊、平民主義を掲げる。1890年には「国民新聞」を創刊。彼の論説は沈滞していたこの時期のジャーナリズムを活気づけることになる。日露戦争(1904)においては、国論の統一に尽力。1905年、日露戦争後のポーツマス講和条約に不満を持つ民衆による日比谷焼き討ち事件で、国民新聞社が襲撃を受ける。1918年、「近世日本国民史」の連載始まる。1945年、連合国によりA級戦犯容疑者に指名され、自宅拘禁にされる。1952年公職追放解除。同年「近世日本国民史」第100巻が完成する。日露戦争の勝利を近代日本史の頂点に掲げる彼の歴史観は、司馬遼太郎等の思想家に影響を与えた。1957年11月2日逝去、享年94歳。

徳富盧花(1868-1927) 明治、大正期の文豪。本名は健次郎で、蘇峰の実弟。蘇峰と大江義塾で学ぶ。明治33年「不如帰(ほととぎす)」で一躍有名になる。主な著に「自然と人生」「思出の記」「黒潮」などの名作がある。

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