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2014年9月

2014年9月19日 (金)

不倫とヘッツァー

第2次世界大戦を舞台にした映画は数多あるが、「ハノーバー・ストリート」は観たことがなかった。副題に「哀愁の街かど」とあり、また物語もイギリス駐留のアメリカ兵と旦那がイギリス軍の将校である妻との恋愛であり、この系統の作品は、ヘミングウェイの「武器よさらば」とか、リチャード・ギア主演の「ヤンクス」とか、少なからずあるので、興味が今ひとつ湧かなかった。

NHK-BSで放映されたので、とりあえず観てみた。主演のデビッド・ハロランはハリソン・フォードで、お相手のマーガレットは レスリー=アン・ダウン。そしてその夫役のイギリス人将校には「サウンドオブミュージック」「空軍大戦略」等のクリストファー・プラマーがそれぞれ演じている。この頃のハリソン・フォードは「スターウォーズ」シリーズや「ブレードランナー」などに出演し、俳優として頭角を現しつつあった。

この映画をラブストーリーとして捉えると、平凡で、余り推挙できないのだが、もう一つの角度、即ちマニアックな戦争ものとして眺めると、「へ〜」なのである。本物のB−25が画面一杯に現れ、編隊を組んで、ドイツ占領地を空爆する。監督のピーター・ハイアムズはかなりの航空マニアなのだそうだ。監督の意向が反映しているわけだ。

後半では、フランス人の農家に囲まわれているところをドイツの憲兵に密告され、ハロラン等がバイクで逃走する場面があるが、追っ手にはなんと「ヘッツァー」が登場する。そう、「ガルパン」でカメさんチームが38t戦車を改造キットを使って、無理やりヘッツァーに作り替えたが、本物のヘッツァーが映画に登場するのだ。

視点を変えれば、別lの楽しみ方もできるが、このあたりに触手が伸びてしまうマニアックなあなた、少し気をつけましょう。

2014年9月 9日 (火)

桜島PART3(発見・鹿児島!)

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古里温泉にある林芙美子文学碑(1)

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林芙美子文学碑(2)

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林芙美子文学碑(3)

「花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき」は林芙美子の言葉としてあまりにも有名だが、その出典ははっきりとしていないようだ。「放浪記」から引用されたものでもなく、ただ「花のいのち-の言葉が人口に膾炙するにあたっては、芙美子自身の色紙の存在がある。下線部は林芙美子花のいのちの謎 宮田俊行 高城書房9頁からの引用。」ということらしい。また「芙美子の女性観では、一度つまずいたら、坂をころびおちるように、没落の歩く弱い女ばかり多い。(中略)自分の人生を悔いなく生きていきなさいというエールを世の女性たち全体に送っているのである。下線部は林芙美子花のいのちの謎 宮田俊行 高城書房212頁~213頁からの引用。」という意図があるようだ。

林芙美子は明治36年(1903)12月31日に生れた。父は行商人の宮田麻太郎、母は林キク。キクが鹿児島の出身であったため、本籍地は東桜島村古里になっている。麻太郎とキクは入籍しておらず、その後二人は別れ、キクは同じく行商人の沢井喜三郎と結婚。芙美子ともども各地を転々とすることになる。一家の商売は上手くいかず、芙美子は一時期、鹿児島の祖母のもとに預けられた。その後、一家は尾道に移住し、芙美子は懇意にしてくれた師に恵まれ、尾道高等女学校に進学し、この時、文学的才能を開花させることとなった。

「放浪記」の冒頭部分に次のように記されている。「私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。父は四国の伊予の人間で、太物の行商人であった。母は、九州の桜島の温泉宿の娘である。母は他国者と一緒になったと云うので、鹿児島を追放されて父と落ちつき場所を求めたところは、山口県の下関と云う処であった。下線部は林芙美子 放浪記 新潮文庫8頁からの引用。」

作家の向田邦子が、林芙美子について次のようなコメントを残している。「放浪記の林芙美子女史は、電車に乗ると、まわりを見廻して、いまこの瞬間事故にあったら、どの男の手を取って逃げようかと空想したそうだが、甲斐性も度胸もない私は、ひとさまの懐具合を想像したのだった。下線部は向田邦子 眠る盃 講談社文庫87頁からの引用。」二人の恋愛観、人生観の特徴が表現されているようで、興味深い。

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牛根大橋
2008年3月に開通。全長381メートルで、上方に反ったアーチ型の構造で、バランスドアーチという形式で呼ばれている。国道220号の垂水市牛根麓地区は、大雨等による土砂災害の恐れがある場合、通行止めとなるため、それを回避するためのバイパスとして牛根麓~桜島口間の2.7kmが整備され、牛根大橋は1999年度に工事を着手。約9年の工事期間と約220億円を費やして完成した。

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噴火活動が再び活発になってきた桜島昭和火口 
昭和火口は2009年1月より噴火活動が顕著になり、更に2月に入って噴火が頻繁になったことから、気象庁は2月2日、噴火警戒レベルを2(火口周辺規制)から3(入山規制)に引き上げた。その後活動が沈静化したため、一旦は噴火警戒レベルを3から2に引き下げたが、2月28日以降、再び爆発的噴火が多発し、3月2日に噴火警戒レベルは3に戻された。そして4月9日午後3時半ごろ、昭和火口が噴火し、噴煙は高度4000メートルに達し、鹿児島市街地に9年ぶりとなる多量の火山灰が降り注いだ。

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黒神埋没鳥居
大正3年の大爆発による火山灰のため、鳥居が、その上部を残して、殆ど埋まってしまった。地中に埋もれたままの状態で保存されており、爆発の凄まじさを現在に暗黙裏に伝えている。

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桜島の至る所に火山の爆発を想定した退避壕が設けられている。

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小学校の校舎の背後に慄然とそびえ立つ桜島。そこには潜在的な危険と隣り合わせの日常がある。

結びとして
この「桜島」の特集を「発見・鹿児島!」のサイトにアップするため、今週末に記事をタイプしていた。一昨日、その桜島が9年ぶりに規模の大きい噴火をした。噴煙は高度4000メートルに達し、風向きの影響で、鹿児島市内は一面の火山灰に見舞われた。最近活動著しい昭和火口からの噴火であり、久しく桜島の活動による被害から遠のいていた鹿児島の住民にも、以前の活発だったころの桜島の火山活動の記憶が甦ったに違いない。

ところで、桜島の東桜島小学校には、大正3年(1914)の大爆発の惨劇を教訓にした爆発記念碑がある。そこには「本島の爆発は古来歴史に照らし後日またまた免れざるは必然のことなるべし。住民は理論に信頼せず、異変を認知する時は未前に避難の用意もっとも肝要とし、平素勤倹産を治め、何時変災にあうも路途に迷はざる覚悟なかるべからず。」と記されている。これは当時の鹿児島測候所が大爆発の発生を予知できず、避難勧告を出さなかったため、測候所の「爆発はない」の予想を信頼して村の責任者がそのまま居残り、そのため犠牲者を出してしまったことに鑑み、将来への教訓を唱ったものとなっている。

4月9日の噴火は、久方ぶりに鹿児島市街地に大量の火山灰をまき散らしたのだが、この9年間のインターバルというものは、桜島の気の遠くなるような生命の歴史からすると、ほんの瞬きほどの時間に違いない。大正の爆発から100年近く経つが、彼の未曾有の大惨事の再来を否定する経験的根拠は存在しない。したがって我々は理論に全幅の信頼を寄せることなく、過去の教訓を踏まえて、常にこの桜島と向き合わなければならない、そう考えた次第である。尚、大正3年の桜島大爆発については、「桜島噴火記 住民ハ理論ニ信頼セズ・・・ 柳川喜郎 日本放送協会」が、著者のジャーナリストの立場から、詳細に論じているので、一読をお勧めする。

それでも桜島には魅力的な希有の財産が豊富にある。これらの貴重な財宝を慈しみながらも、同時に危険な自然災害に対する配慮は忘れない気概が、それはかなりの忍耐をともなうけれど、必要であろう。なぜなら桜島は端的で分かりやすい鹿児島を表現する象徴であるからだ。

2009年4月15日

(参考資料)
鹿児島県の歴史 原口泉 永山修一 日隈正守 松尾千歳 皆村武一 山川出版社(1999)
鹿児島県の歴史散歩 鹿児島県高等学校歴史部会 山川出版社(1992)
桜島大噴火 橋村健一 春苑堂出版(1994)
桜島噴火記 住民ハ理論ニ信頼セズ・・・ 柳川喜郎 日本放送協会(1984)
林芙美子「花のいのち」の謎 宮田俊行 高城書房(2005) 
放浪記 林芙美子 新潮文庫(1979)
梅崎春生 桜島 講談社文芸文庫(1989)
向田邦子 眠る盃 講談社文庫(1982)

桜島PART1(発見・鹿児島!)
桜島PART2(発見・鹿児島!)


桜島PART2(発見・鹿児島!)

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桜島小みかん 
直径は僅か5センチほどで、重さは30~50gと小粒である。しかしその分甘さが凝縮されており、糖度は13度以上になるそうだ。桜島の特産品で、世界一小さいミカンとしてギネスブックで認定された。12月頃に収穫される。

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桜島大根 
同じく桜島の特産品で、平均的な大きさは直系40~50cm、重さは15~20kgになるが、中には30~40kgになるものもある。こちらはギネスブックに認定された世界で一番大きな大根である。12月~2月頃収穫される。

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「叫びの肖像」 
2004年8月21日の「長渕剛桜島オールナイトコンサート」を記念して建立された。当日は真夏の猛暑にもかかわらず、全国より7万5千人が集い、夜通しの熱いライブパフォーマンスが展開された。

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「叫びの肖像」の下に設置されたプレート

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神瀬(かんぜ) 
干潮時になると、写真のように浅瀬が海上に出現する。「叫びの肖像」のある場所から海へ視線を移すと眼にとまった。

2004年の長渕剛の「桜島オールナイトコンサート」のことは良く憶えている。地元のホテルなどの宿泊施設は、コンサート観覧者の予約で、どこも一杯で、鹿児島はちょっとした「長渕特需」で活況を呈していた。遠路はるばる九州の最南端の鹿児島まで足を運ばれたファンの熱意には敬服するものがあるし、またコンサートの実現を成功させた長渕剛の人間的魅力にも脱帽した。試しに桜島フェリー乗り場より、車のメーターをリセットして、会場までの距離を測ってみた。およそ2.5km。あの真夏の炎天下にフェリー乗り場より会場まで、殆どのファンが徒歩で駆けつけたのである。郷土のヒーローに最敬礼!

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烏島展望所 
大正3年の大噴火により、桜島の溶岩流が沖合いの烏島まで及び、島全体を呑み込んでしまった。今は全くその痕跡を知る由もなく、わずかにこの記念碑が歴史的な事実を物語っている。

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深くえぐられた山襞 
絶えず降り積もる火山灰が、この標高1100mほどの山の頂上部への生命の進出を頑なに拒んでいる。(古里温泉にて)

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噴煙を噴き上げる昭和火口(有村溶岩展望所にて) 
昨年(2008)の暮れより昭和火口からの噴火が活発になってきた。垂水方面に向かう途中、噴煙が気流にのって大隅半島へ流れていくのを目撃。

「それは、青いものが一本もない、代赭色の巨大な土塊の堆積であった。赤く焼けた溶岩の、不気味なほど莫大なつみ重なりであった。もはや之は山というものではなかった。双眼鏡のレンズのせいか、岩肌の陰影がどぎつく浮き、非常の強さで私の眼を圧迫した。憑かれたように私はそれに見入っていた。下線部は梅崎春生 桜島(講談社文芸文庫)66頁からの引用。」薩摩半島側の鹿児島市街地から眺め観る桜島は、どっしりと鹿児島湾の真ん中に鎮座し、悠然とその威容を誇るのだが、ひとたび爆発が始まると、人間の手に負えない大自然の猛威を残酷なまでに振い、致命的な災害をもたらす。大正3年の大爆発では、農地の多くが甚大な被害を受け、農業を諦め島から移住する人々が後を絶たず、爆発の前は人口2万人を数えたが、残った住民はその3分の1に過ぎなかった。

桜島PART1(発見・鹿児島!)
桜島PART3(発見・鹿児島!)

桜島PART1(発見・鹿児島!)

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桜島ルートマップ

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城山展望台(鹿児島市)にて桜島を眺望する。

城山は西南戦争における西郷隆盛終焉の地である。この標高100Mあまりの場所から眺める桜島の雄姿は絶景である。幕末、福岡藩出身の攘夷派の志士、平野国臣は、「わが胸の燃ゆる思いにくらぶれば煙はうすし桜島山」と詠んだ。また作家の向田邦子は、「無いものねだりのわが鹿児島感傷旅行の中で、結局変らないものは、人。そして生きて火を吐く桜島であった。下線部は向田邦子、眠る盃所収、鹿児島感傷旅行(講談社文庫)156頁からの引用。」と語った。何れも桜島の雄大さ、普遍性を表現していると考える。

桜島の名前の由来
桜島という名前の起源は諸説ある。海面に桜の花が浮かんで島となったという説、大隅守桜島忠信に由来する説、木花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)の名前から来ているという説などである。

桜島、大爆発の歴史
記録に残るものとしては、文明8年(1476)、安永8年(1779)、大正3年(1914)、昭和21年(1946)のそれぞれの大爆発が有名であるが、大正と昭和の爆発は写真などの歴史的資料も多く存在し、大自然の脅威を今日に伝えている。

大正3年の大爆発は、その3日ほど前から地震がおこり、前日には地震の回数が70~80回にも及んだ。1月12日、大爆発は始まり、黒い噴煙が高度1万メートル以上まで上がった。火口から流れ出た溶岩が大地を埋めつくし、桜島沖合いの烏島は溶岩に呑み込まれ完全に消滅してしまった。桜島と大隅半島を隔てた瀬戸海峡は大量の溶岩の流出によって陸続きとなった。昭和21年の爆発では、溶岩流は黒神、有村地区を襲い、黒神海岸沖の浜島を呑み込んでしまった。

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桜島ビジターセンター 
袴腰の桜島フェリーターミナルから程近いところにある。200インチのハイビジョンによる桜島の映像をはじめ、桜島の爆発と歴史、桜島の陸と海の生態系などを写真や模型で紹介している。入場は無料。

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梅崎春生文学碑 
2006年にビジターセンターに隣接する溶岩なぎさ公園内に建立された。「戦後文学の旗手」と評される梅崎春生の小説「桜島」は、作者自身の海軍での経験を踏まえ、主人公、村上兵曹が、戦争下において「死」というものに弄ばれながら、人間性の尊厳の否定と対峙する、極めて力強い作品となっている。

「此処は少なくとも第一線だ。毎日グラマンが飛んで来る。どうせ此処で、皆死ぬんだ。死ぬまで、人から嗤われたり後指をさされたりするようなことをするな。下線部は梅崎春生 桜島(講談社文芸文庫)61頁からの引用。」これが桜島の通信隊での上官である吉良兵曹長が、最初に村上に言い放った言葉であった。吉良を「変質者」と嫌う村上にとって、アメリカとの戦いであるこの戦争は、常軌を逸した軍紀という名のもとの壮絶な内なる戦いであった。

絶望的ともいえる「生」への執着は、真夏の陽射しの下の玉音放送によって決定的な結末を迎える。戦争は終わった。「崖の上に、落日に染められた桜島岳があった。私が歩くに従って、樹々に見隠れした、赤と青との濃淡に染められた山肌は、天上の美しさであった。下線部は梅崎春生 桜島(講談社文芸文庫)122頁からの引用。」

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湯之平展望所から仰ぎ観る桜島の威容 
桜島山頂までの距離感に、思わず息をのむ。この瞬間に火山が爆発したら?

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沖小島 
文久3年(1863)の薩英戦争の際には、臨時の砲台が設けられた。また桜島の燃崎との間に水雷が敷設された。

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湯之平展望所より杳然と鹿児島市街地を望む。
写真中央部の桜島フェリーは鹿児島と桜島の間を15分で結ぶ。24時間営業である。

湯之平展望所から眼前に桜島が聳立する様はまさに壮観である。日頃対岸の鹿児島市側から眺める桜島は、それなりに距離感があるためだろうか、あるいは日常的な風景として捉えているからだろうか、圧倒的な迫力というものを、噴火した場合を除いて、あまり感じない。小学校の遠足でこの場所を訪れたか、記憶の方ははっきりしないのだが、展望所より真近にそびえる桜島は、全くの活火山であるという印象がともなって、やはり畏怖感、否、剣呑たる緊張感を帯びていた。特に昨年末(2008)より昭和火口を中心に再び火山活動が活発になってきたため、この場に長居したいという欲求はなかった。それでも骨大にそびえる桜島の威容と、鹿児島市街地の俯瞰図を一同に体験できるので、是非とも足を運んでもらいたい。

桜島PART2(発見・鹿児島!)
桜島PART3(発見・鹿児島!)

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