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2014年10月

2014年10月28日 (火)

鹿児島市電PART4(発見・鹿児島!)

Tram30
高見馬場交差点 
ここより電車は1系統(写真右側方向)と2系統(写真手前側方向)に分岐する。高見馬場付近は、もともと甲突川にできた中洲が陸地化したときに、小高い丘が残り、高みの前に通りができたので、高見馬場と称するようになった。

Tram31
大久保利通像
高見橋電近くには明治維新最大の功労者の一人、大久保利通の像が建っている。この辺りは江戸時代末期まで高見橋より甲突川上流付近は上加治屋、下流付近は下加治屋と呼ばれ、郷士と呼ばれる下級武士の住居があったところである。

作品名「大久保利通公」は1979年に、鹿児島大学名誉教授で日本芸術院会員の中村晋也氏によって制作された。大久保利通は天保元年(1830)、高麗町に生まれ、生後ほどなく下加治屋に移り住んだ。国父と呼ばれて藩の実権を握った島津久光に取り入れられて、下級武士としては異例の出世を果たし、西郷隆盛とともに、明治維新の中軸的役割を担った。維新後は参議を経て内務卿となり、殖産興業政策を押し進め、又わが国の官僚制度確立に力を注ぎ、近代日本の礎を築いたが、明治11年(1878)、東京紀尾井坂で不平士族により暗殺された。享年49歳。

郷中教育(ごじゅうきょういく)
薩摩藩の郷中において行われた藩士の子弟同士よる自治的な教育制度。島津家中興の祖、島津忠良(日新公)の「いろは歌」の教えを中心にしており、豊臣秀吉による朝鮮出兵の際、留守を預かった大口郷の地頭、新納忠元が「二才咄格式定目」に武士の心得をまとめ、郷中教育に発展していった。

城下の36の郷中において子弟たちは、その年齢によって二才(14、5才から24、5才)と稚児(6、7才から14、5才)に分けられ、年長の二才が稚児を教育し、面倒をみた。郷中教育には教師はおらず、厳格に決められた日課に従い、学問を学び、武道の稽古に励んだ。特に郷中教育が盛んだった加治屋町からは西郷隆盛、大久保利通、大山巌、山本権兵衛、東郷平八郎ら幕末から明治維新、日清戦争、日露戦争にかけて活躍した、優れた人材を多く輩出した。イギリス人ベーデン・パウエルが、イギリスにおいて1908年にボーイスカウトの制度を起こしたとき、薩摩の郷中教育の持つ青少年の自立的な相互教育の精神を参考にしたと伝えられている。

Tram38
高見橋電停
緑化された軌道を進む新型車両7000形。緑化事業は平成18年(2006)より始まった。

Tram34
西鹿児島駅
懐かしい三角屋根の西駅(通称)の姿だ。第二次世界大戦で駅舎が消失したため、戦後に建替えられたもの。九州新幹線整備事業の一環として、平成8年に現在のものに再び建替えられた。

Tram33
九州新幹線の開業に合わせて、地下道を建設。新しい駅ビルはショッピングやシネコンでの映画が楽しめる複合施設になった。

Tram35
旧西鹿児島駅前電停 
交通量の多い西鹿児島駅前の県道の真ん中に位置していたので、駅への往来は時間を要した。同じく新幹線開業に合わせて、軌道が鹿児島中央駅寄りに変更された。

Tram32
南国日本生命ビル
西鹿児島駅周辺の象徴的存在であった「日生ビル」も、取り壊され、新たに「鹿児島中央ターミナルビル」に生まれ変わった。

Tram37
鹿児島中央駅前電停(1)
電停並びに軌道が中央駅寄りに変更されたので、路面電車の乗降、そして鹿児島中央駅へのアクセスが楽になった。

Tram36
鹿児島中央駅前電停(2)

西鹿児島駅は地元の人間からは「にしえき」と、愛着をもって呼ばれていた。学生時代を東京で過ごした私は、帰省には専らJRを利用した。陽も昇らぬうちに新幹線で東京駅を出発し、博多で「有明」に乗換え、西駅に着いた頃は夜も8時をまわっていた。半日以上の長旅に疲れはしたが、西駅の三角屋根の駅舎を見た時は、ほっとした。昭和49年8月、鹿児島実業が夏の甲子園に県勢としては初のベスト4入りを果たし、鹿児島に凱旋したとき、市民が出迎えたのも、この西駅だったと記憶している。

この駅には想い出が多すぎる。三角屋根の駅舎を失い、更に「にしえき」という名前まで消え去ろうとしている今、寂しさで胸が一杯になってしまう。恐らく我々地元民以上に、県外で活躍されておられる県出身者の失望は想像に難くない。鹿児島をひとたび離れると、人は故郷はずっとそのままでいて欲しいと思うものだ。それとは裏腹に、地元の人間は郷土の発展を常に願って止まない。この気持ちの行き違いが、それぞれの西駅の在り方にも反映していると、最近考えるようになった。今となっては写真の上でしか見ることのできない、かつての西駅の姿を記憶にとどめ、旧き良き時代を回想しつつ、九州新幹線開通と同時に、鹿児島中央駅としてリスタートしたこの駅の発展にも期待したい。

Tram39
神田電停 
しんでんと読む。この地域に荒田八幡の神撰田があったことから神田となった。他に一之宮神社の神田であったとする説、若宮神社のために島津家が一五石の田を献じたことに由来するとの説などがある。尚、この502号も平成17年に廃車となった。

MEMO
大正元年(1912)12月、鹿児島電気軌道株式会社が武之橋~谷山間6.4kmで路面電車の運行を開始した。全国で28番目のことであった。以来、90年以上にわたって路面電車は鹿児島市民の身近な足として市民生活を支えてきた。自動車の普及によって一時期、利用が低迷したが、近年は低公害かつ環境に優しい乗物として見直されつつあり、再び巷間の話題を集めることとなった。

平成14年には超低床電車が導入され、バリアフリー社会実現に向けた具体的な取組みが注目されている。更に平成18年より軌道の緑化事業が始まり、ヒートアイランド現象による温暖化の低減、並びに路面電車による騒音の歯止め、そして美観の向上が図られている。

(参考資料)
鹿児島県の歴史 原口泉 永山修一 日隈正守 松尾千歳 皆村武一 山川出版社(1999)
薩摩の豪商たち 高向嘉昭 春苑堂出版(1996)
鹿児島の鉄道・百年 久木田末夫 春苑堂出版(2000)
近代化と鹿児島の建造物 田良島昭 春苑堂出版(1999)
ふる地図に見るかごしまの町 豊増哲雄 春苑堂出版(1996)
全国懐かしの路面電車 (編)山田京一、小野打真 新人物往来社(1998) 
路面電車の基礎知識 谷一巳、西村慶明、水野良太郎 イカロス出版(1999) 
日本の路面電車 原口隆行 JTBキャンブックス(1999)

鹿児島市電PART1(発見・鹿児島!)
鹿児島市電PART2(発見・鹿児島!)
鹿児島市電PART3(発見・鹿児島!)

2014年10月21日 (火)

鹿児島市電PART3(発見・鹿児島!)

Tram20
新川4号踏切道(涙橋と南鹿児島駅前の間)

Tram21
南鹿児島駅前電停 
JR指宿枕崎線の南鹿児島駅に隣接している。

Tram24
二軒茶屋~宇宿一丁目(1991.8撮影)

Tram22
宇宿一丁目電停 
谷山線の魅力は、鄙びたローカル線の雰囲気が感じ取られるところだろうか。

Tram25
笹貫~上塩屋(1991.8撮影)

Tram29
谷山駅(1) 
1系統の終着駅となる。

Tram28
谷山駅(2)

Tram27

谷山駅(3) 
鹿児島は焼酎の生産量が日本一で、代表的な産業であるためか、電車のボディーの全面広告も酒造メーカーによるものが多い。

鹿児島市電PART1(発見・鹿児島!)
鹿児島市電PART2(発見・鹿児島!)
鹿児島市電PART4(発見・鹿児島!)


2014年10月16日 (木)

鹿児島市電PART2(発見・鹿児島!)

Tram10
天文館通電停
この辺りは「天文館」と呼ばれており、鹿児島県下随一の繁華街である。名称の由来は、薩摩藩第25代藩主、島津重豪が当地に天体観測所明時館(別名天文館)を設けたことによる。

Tram11
高見馬場電停

Tram12
市立病院前電停

Tram13
交通局前電停

Tram14
鹿児島市交通局車庫
交通局玄関左手には市電センターポール事業の竣工碑が建っている。鹿児島市電のセンターポール化工事は昭和62年から平成3年にわたって行われた。その事業延長は8.75kmに及ぶ。それまでのサイドポール式は、架線とそれを支えるスパンワイヤーが道路上に蜘蛛の巣のように張り巡らされ、お世辞にも美しい景観とは言えなかった。近年、都市景観の改善にも注意が注がれ、歩道上の電線、電話線の地中への埋没化と同時に、センターポール化も進められた結果、道路上の空間にゆとりが生まれた。

Tram15
郡元電停と連接式超低床電車7000形
平成19年(2007)の4月26日より新型車両7000形が営業運転を開始した。連接式超低床電車(5車体3台車)で、定員は78人(座席24人)。自重25.5t、長さ 18,000mm、幅2,450mm、高さ3,750mm(パンタ折畳時)、最高運転速度40km/hとなっている。

鹿児島市は2007年3月末より市電軌道敷緑化工事を開始しており、軌道の改良と相まって、新型のLRVはヨーロッパのそれに更に一歩近付いた感がある。

Tram16
郡元電停(1)
2系統(鹿児島中央駅前経由)の電車はここが終点。谷山方面へは1系統(交通局前経由)電車への乗換となる。

Tram17
郡元電停(2)

Tram18
涙橋電停(1)
軌道上の架線がセンターポール化されたため、空間の広がりがとても美しい。ここを過ぎると路面電車は、いよいよ独立軌道の谷山線に乗り入れる。

Tram19
涙橋電停(2)

鹿児島市電PART1(発見・鹿児島!)
鹿児島市電PART3(発見・鹿児島!)
鹿児島市電PART4(発見・鹿児島!)

2014年10月13日 (月)

鹿児島市電PART1(発見・鹿児島!)

Mapsiden
鹿児島市電路線図

Tram1
鹿児島駅前を発車する2120形(旧鶴岡号)

Tram2
鹿児島駅前にて 
昔の配色が平成13年(2001)に復活した。尚、502及び、503は平成17年(2005)に廃車となった。

Tram3
800形(1991.8撮影)

Tram4
超低床電車1000形(愛称ユートラム)は平成14年(2002)1月にデビュー、超低床電車としては熊本、広島に次いで国内三番目のお目見得となる。全長14m、幅2.45m、高さ3.6m、総重量19tで、ホームと車両との段差はわずか5cm。近年の公共施設のバリアフリー化に対応したもので、清涼感溢れるレモンイエローのボディは南国鹿児島のイメージにとても馴染む。

1000形ユートラムは、国産初の超低床電車であり、先進的な電動バネブレーキを採用し、またそのような車両を一度に3両導入することにより、実用的な意図が見える点が評価され、鉄道友の会より2003年度のローレル賞を授与された。

(沿革)
鹿児島市電は大正元年12月1日に鹿児島電気軌道として開業。昭和3年7月1日に鹿児島市へ譲渡。昭和36年伊敷線開通によって営業キロ数は19.4kmまで延長される。昭和42年ワンマンカー化、昭和44年均一運賃制の導入、昭和50年乗換券導入、と常に経営の合理化とサービスの向上をはかってきたが、モータリゼーションの急激な変容に追従することは難しく、昭和60年上町線、伊敷線が廃止された。現在の営業キロ数は13.145km。

鹿児島駅はその名からも推察できるように、現在の鹿児島本線ができる以前の鹿児島線(現在の日豊本線鹿児島-隼人間、肥薩線)の始発駅であった。鹿児島駅周辺は古くから上町(かんまち)と呼ばれる地域である。鎌倉時代、現在の宮崎県都城市にあった島津荘の守護に補任された惟宗忠久は、荘園の名をそのまま名字にした。島津氏の誕生である。もともと島津氏は3代久経の頃までは鎌倉に在住していたが、13世紀の蒙古襲来時に、幕府の命により薩摩に下向してきた。その後、守護から戦国大名として南九州全体に支配地域を広げ、天文19年(1550)、15代貴久の頃に現在の鹿児島市北部に入城したと考えられている。上町と呼ばれる北部から、城下は南へ広がり、18代家久が鶴丸城を築いた。更に現在の街の賑わいは天文館や西鹿児島駅周辺へと南下していったが、鹿児島発祥の地は北部の上町にあったとも言えるのである。

Tram6
市役所前電停 
鹿児島市市役所庁舎は昭和12年に完成。設計は大蔵省営繕管財局工務部で、国会議事堂を設計した部局としても知られている。

Tram7
朝日通電停 
左手のレトロな建物は地元のデパート、山形屋である。山形屋は出羽(現在の山形県)出身の紅花商人、初代源衛門が祖とされている。島津家25代藩主、重豪は当時、保守的、閉鎖的な薩摩の気風を嫌い、国を開放することにより、他国人の入国を歓迎した。このとき薩摩入りし、呉服屋を営んだのが初代源衛門である。そして3代目善兵衛の頃から、藩への功績により、岩元姓を名乗ることが許された。明治に入り、5代目、岩元信兵衛の時代になると山形屋は大きく発展し、今日に至っている。

Tram8
いづろ通電停といづろ交差点

Tram9
いづろと石灯籠
いづろ通電停を過ぎると、電車はいづろ交差点を大きく右折して、天文館地区に入る。いづろ交差点には立派な石灯籠がある。この石灯籠(いしどうろう)が訛って、「いづろ」になったと言われている。いづろ通の名の由来は海辺の屋久島岸岐にあった灯籠を移したためとも、又ここより松原神社まで灯籠が並んでいたためとも伝えられている。

鹿児島市電PART2(発見・鹿児島!)
鹿児島市電PART3(発見・鹿児島!)
鹿児島市電PART4(発見・鹿児島!)


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