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2015年5月30日 (土)

女性誌

NTTドコモが提供している「dマガジン」が面白い。毎日のように刊行される多種多様な雑誌のコンテンツを、月々400円で読むことが可能だからだ。auやソフトバンクのユーザーでも利用できる。

そのなかで、女性誌が私の興味を惹いた。「婦人画報」のクオリティの高さに驚いた。巻頭には高円宮妃久子様の「レンズを通して」が連載されており、その素晴らしさに感動を覚えた。能や歌舞伎の特集、あるいは料理のレシピ、紀行文も充実しており、思わず見入ってしまう。

女性誌を本屋で眺めるのは、男にとっては気恥ずかしいかもしれないが、ネット上だと、全く気兼ねせず読み耽ることが可能だ。そのほか、「家庭画報」「Hanako」「エル・ア・ターブル」等々も満足できる。これらはジェンダーを全く気にせずに楽しめる。素晴らしい。

2014年6月 4日 (水)

高熱隧道

映画「黒部の太陽」をDVDで観た。この作品は黒部川第四発電所(以下黒四と略す)建設の苦難を描いた大作で、監督は社会派映画の巨匠、熊井啓。1968年に公開され、興行収入が7.9億円となり、大成功を収めた。制作当時、映像文化は映画会社が影響力を誇示しており、東宝から独立した三船敏郎と日活から独立した石原裕次郎は、五社協定の壁に突き当たっていたが、関西電力からの協力を取り付け、最終的には映画会社との和解がはかられ、配給は東宝と日活が担うことになった。

劇中、宇奈月温泉から黒部川第三発電所(以下黒三と略す)まで、関西電力の北川(三船敏郎)等は黒部峡谷鉄道で向かう途中、高熱トンネルを通過するのだが、同行した佐藤工業の森(宇野重吉)から、ここは地獄だったと聞かされる。黒三建設のため設けられた鉄道用のトンネル工事が温泉湧出地帯に突き当たり、日本の建設史上最悪の犠牲者を出した。黒三のことは黒四の建設ほどは知られていない思うので、吉村昭の小説「高熱隧道」に記された史実を追ってみることにした。

日本電力(本社大阪市)による黒三建設が動き出したのは昭和11年(1936)9月からである。戦時下の阪神地区の電力需要に呼応するためであり、国家的なプロジェクトであった。第一工区の阿曾原谷横坑が温泉湧出地帯に及び、岩盤温度が70℃を超える事態となった。更に中心部では100℃を記録し、ダイナマイトが自然発火する恐れが出てきた。法律の規制では40℃が上限だった。

昭和13年(1938)8月23日、岩盤にダイナマイトを装填中に爆発し、8名が死亡した。工事責任者の藤平(架空の人物)は気づいた。「あわてて眼の前の湯の中に揺れている桃色がかったものに視線をもどした。しばらく、それが内蔵のはみ出た胴体の一部であるらしいことに藤平は気がついた。」「根津は、岩肌にへばりついた肉塊をそぎ落とし、湯の底からちぎれた衣服のついている黒いものを抱き上げる。そして、服をかがめてトロッコに近づくと、箱の中へ押しこむ作業をくり返しはじめた。」下線部は高熱隧道 吉村昭 新潮文庫67〜68頁からの引用。尚、根津も架空の人物。

昭和13年12月27日午前3時30分頃、志合谷で泡雪崩がおきた。鉄筋コンクリート5階建ての宿舎は2階以上は跡形もなく消えてしまった。泡雪崩は宿舎の北東700メートルの峻険な山の傾斜で発生した。雪庇が1000メートルにわたって大崩落し、泡雪崩を発生させた。犠牲者は84名に及んだ。

富山県や県警本部の度重なる工事中止勧告にもかかわらず、現実に工事が中止されることはなかった。志合谷の犠牲者の遺族へ天皇陛下より御下賜金の下附決定がなされた。これは中央政府による絶対的な工事の続行を意図し、地方の行政機関が容喙できる事柄ではなかった。大日本帝国憲法下の日本人は「臣民」と呼ばれた。そして天皇の統帥権を隠れ蓑にして、中央政府すなわち軍部が、過酷なまでに日本人を隷従させ、大戦を指揮した。

黒部第三発電所建設工事は、仙人谷ダム完成を最後に、昭和15年11月21日に完工。全工区の犠牲者は三百名を越えた(中略)この建設工事を計画し指導した日本電力株式会社は、この難工事を最後に、戦争遂行のために設けられた電力国家管理法にもとづいて解体され、大半の土木技術者たちは国内・外に散った。」下線部は高熱隧道 吉村昭 新潮文庫219〜220頁からの引用。

世の中にはアメリカからの押し付けを根拠として改憲を論じる人がいる。既に記したように、大日本帝国憲法下では、国民、否、臣民の不完全な人権は、軍国主義者によって戦時下を理由に蹂躙された。敗戦後、日本人は「民主主義」とか「自由主義」とかの観念を知らなかったので、アメリカの影響の強い民主的、自由主義的な日本国憲法の発布を心から喜んだ。ところが勝者によってもたらされた基本的人権を、改憲論者はあたかも自前で導きだした、当然の権利として捉え、自主憲法の制定を標榜する。

平成24年に自民党が著した「日本国憲法改正草案」にどれほどの人が眼を通したのだろうか?自衛隊は名称を「国防軍」に改められることを知ってました?私の個人的な考えだが、憲法改正が困難な状況下で、安倍内閣は「自衛権」を解釈論で乗り切ろうと考えているように見える。民主主義国家においては、国民が賢くないと、単なる衆愚政治に陥る。

余談だが、隧道(ずいどう)はトンネルを指す言葉だが、元々は棺を埋めるために、平地から墓穴に通じる斜めの道を意味した。◯◯隧道と記された古いものを時々目にするが、その辺りを忌み嫌って、今はトンネルと表記するようになったのだろうか?高熱隧道の犠牲者はまさに「隧道」を使って外に運び出された。

2013年5月18日 (土)

田宮模型の仕事

もう13年前のことなのか。書店でこの本に視線が釘付けとなった。表紙の写真のフィギュアが目に留まった。そう、これはタミヤ製のMMシリーズの「ドイツ・8トンハーフトラック4連高射砲」に付属するドイツ軍指揮官の姿だ。懐かしかった。

小学6年生ぐらいだったろうか。少年雑誌にタミヤのこのキットの情景写真が載っていたのだ。冬期装備をした見慣れないドイツ兵と、白く塗られたハーフトラックの組み合わせ。戦争映画のドイツの歩兵とは異なる格好に気持ちが高揚した。小遣いを貯め、とりあえず「ハノマーク」を買い、模型製作の手順に慣れてからこのキットにトライしようと考えた。小さい頃から用意周到な性格だった(笑)。

色々なものを作ったが、ご多分にもれず、わたしもドイツ軍のキットが好きだった。如何にもメカニックな構造が少年の好奇心をくすぐったのだ。「キューベルワーゲン」、「シュビムワーゲン」「ケッテンクラート」などは値段が安かったので、小学生にも比較的楽に購入できた。「ロンメル戦車」「ハンティングタイガー」「キングタイガー」にも挑戦した。当時は「ヤークトパンター」「ヤークトティーガー」「ケーニヒスティーガー」という言い方はしなかったと思う。

「田宮模型の仕事」の著者、田宮俊作氏は現在、株式会社タミヤの代表権のある会長になり、社長は娘婿の田宮昌行氏が務めておられるそうだが、この文庫本発刊当時、俊作氏は社長の職にあり、ご自身の成功や失敗の経験談が詳しく紹介されている。特に私の興味を惹いたのは、ドイツのボルフガング・コワルスキーさんとの交流の部分で、仕事の枠を超えた、国籍の違いを超えた熱い友情に感銘を憶えた。

またイギリスのボービントン戦車博物館での取材の様子や、同地での「タミヤホール」建設の経緯が細かく記載されており、そこの下りは模型マニアならずとも感動せずにはいられないだろう。1/12スケールのホンダF1の商品化の過程に関する記述に対しても私は興奮を押さえられなかった。奇しくもホンダは2015年にF1レースに復帰することを5月16日にプレスに発表したばかりだ。

今再びブームになりつつあるミリタリーモデル。その黎明期にタミヤの田宮俊作氏は自ら世界中の戦車博物館に足を運び、取材を行い、スケールモデルの商品化を果たした。そしてTAMIYAの名は高品質な世界ブランドとなった。氏の語り口はまさに模型製作に夢中になっている少年の姿そのものだ。


ボービントン戦車博物館"Tiger Day 2012"
「西住殿、本物のティーガーですね。動いていますよ。あれ、16分56秒ぐらいにティーガーの前方に現れたのは、ノンナに肩車されたカチューシャじゃないですか。研究熱心ですね〜。」

*今年はチャスタイズ作戦(Operation Chastise)決行70周年に当たり、やはり5月16日にイギリスでランカスター爆撃機による記念飛行が執り行われた。尚この作戦で爆撃されたメーネダム(Möhne Dam)を田宮俊作氏も訪れており、その様子が「田宮模型の仕事」183頁で写真付きで紹介されている。

チャスタイズ作戦(Wikipedia)

作戦決行70周年を報じるイギリス"The Telegraph"紙


2012年2月11日 (土)

男の肖像

塩野七生さんの「男の肖像」に西郷隆盛のはなしがある。そこに「一日に西郷に接すれば、一日の愛生ず。三日接すれば、三日の愛生ず。親愛日に加わり、今は去るべくもあらず。ただ、生死をともにせんのみ。」の一文が紹介されている。これは旧中津藩藩士、増田宋太郎のことばだ。

西郷隆盛に直に接すると、その人柄に陶酔し、死を共にすることも厭わなくなるそうだ。塩野さんはこう記している。忘れてならないことだが、人間の願望の最たるものは、安らかな死、につきる。この人の許で死ぬならば、死さえも甘く変るとなればどうだろう。私がもしもあの時代に生まれていたならば、坂本龍馬あたりは他の女たちにまかせておいて、西郷隆盛に惚れたであろう。(下線部は男の肖像 塩野七生 文春文庫107頁からの引用)

「惚れた」とは多少のリップサービスもあるかもしれないが、西郷隆盛ほど先入観に囲まれ、人柄があまり知られていない偉人も稀だろう。例えば大河ドラマの配役を見渡すと、「翔ぶが如く」は西郷が西田敏行、龍馬は佐藤浩市。「新選組!」は西郷が宇梶剛士、龍馬が江口洋介。「篤姫」は西郷が小澤征悦、龍馬が玉木宏。そして「龍馬伝」では西郷が高橋克実で、龍馬はもちろん福山雅治となっていた。

坂本龍馬はいわゆる「自由人」としての颯爽としたイメージが強いし、組織にがんじがらめになっているサラリーマンからすれば、眩しく映るのだろうか。私はまだまだ西郷さんのことを知らない。もう少し勉強しようと思う。けれど鹿児島弁で「せごどん」と呼べる西郷さんが好きだ。斜に構えなくても良い西郷さん。愛犬の「つん」と一緒の上野の西郷さんは穏やかで頼もしい。それで十分。



2011年6月25日 (土)

中陰の花

先日、イギリスの著名な理論物理学者のホーキング博士が、ガーディアン紙のインタビューに応え、「天国は存在しない。それはおとぎ話に過ぎない。」と発言し、話題になった。「私は脳をコンピューターのようなものと考えている。構成要素が働かなくなると機能が停止することになる。天国とか、死後の世界なんてものは存在しない。」と博士は説明した。

唯物論においては、事物の根源は物質や物理現象であり、心や精神は脳髄の働きであるに過ぎない、と定義づける。博士の考えはこの唯物論に限りなく近いし、それ自体別に不可思議な発想ではない。唯物論と唯心論は事柄を捉える角度の違う観念付けあり、絶対的な対立軸とみなすものではないと思う。

私はホーキング博士が唯物論を堅持する立場は理解できる。なぜなら天国とか地獄とか、死後の世界の存在が周知の事実として客観的に証明されているわけではない以上、科学者の立場として、それを否定する理屈も成り立つわけだ。またその逆も然りである。

ただ例えば、ボッティチェッリの「ヴィーナスの誕生」とか、ミケランジェロの「最後の審判」などの神とか天国や地獄の存在を前提としているであろう作品群、あるいは数多の仏教美術などが生まれなかったと仮定した場合、人間の想像世界は何と味気ないものであるかと考えるのである。

玄侑宗久さんの「中陰の花」は初めて読んだが、とても楽しめた。作者が現役のお寺の住職であるために、小説のなかに仏教的な世界観が広がることはある程度予想でき、また難解な仏教用語がちりばめられていることも理解できるが、それ以上に作品の本質が夫婦愛や隣人愛などのベーシックな価値に連なっていることが共感できた。この世とあの世の中間の「中陰」という位置づけも読者の好奇心を刺激する。 

巻末の河合隼雄さんの「解説」と作者の「文庫版のためのあとがき」は、なるべく読んで欲しい。 作品への理解が深まると思う。 

Stephen Hawking: 'There is no heaven; it's a fairy story'(Guardian.co.uk)

私だけの仏教(発見・鹿児島!blog)

2011年6月11日 (土)

女が愛に生きるとき

何とも艶やかなタイトルである。いつものようにBOOKOFFで¥105均一の棚の本を物色していたところ、田辺聖子さんの「女が愛に生きるとき」を見つけた。新刊書なら手を出すのを躊躇するであろうが、古本を4、5冊まとめ買いするためだろうか、気恥ずかしさはなかった。

「女の敵は女」とよく言うが、同性の同性に対する指摘であるためか、全く遠慮がない。

女性は自分にとって、何が本質的に大事なのか、何をいちばん大切にしないといけないのか、あとさき、どれを先にすべきか、見きわめがつかなくなることがあるようである。(中略)女性のおしゃべりが脱線しがちなのは、この、本末を見きわめる能力に欠けているからである。しゃべっているうちに迷路に迷いこんだり、ゆくさきざきで芽をふいたりして、ひまがかかる。(以上は田辺聖子「女が愛に生きるとき」-本末転倒-講談社文庫45頁からの引用である。)

女がほんとに残酷になると、男の残酷など物の数ではない。(中略)いったい、やさしさは女の武器と世間も思い、男も女にやさしさを要求するが、男より女がやさしい、ということには私は疑問である。女のやさしさは、単に弱気であったり、媚びであったり、無責任であったりすることが多くて、真の自立した精神から発せられる毅然としたやさしさでないことが多い。しかしその反対の残酷は、これはもう、正真正銘のものである。(以上は田辺聖子「女が愛に生きるとき」-女の残酷と優しさ-講談社文庫71〜72頁からの引用である。)

このように田辺さんの主張を並べてしまうと、女性は単に強欲な、ただならぬ生き物のように思えるのだが、決して女性を賛辞する麗句を忘れはしない。

そして、女は、女であることそのことにおいてすでに才女なのです。つまり、女に生まれたらみんな才女であると私はは考えるのです。女という女はみんな、「ある種の生きる才能」をもって生まれた、いや、その才能をもっているからこそ、女であるのですから。(以上は田辺聖子「女が愛に生きるとき」-女はみんな才女である-講談社文庫204頁からの引用である。)

夫は、「まったく、ウチのヤツはしようがない、何もできないんだから」と思いながら、妻にたいするかずかずの不服を心の中で並べたて、その不服が、妻に対する愛情になっていることに気づいていません。このクラスの妻は、たいがい夫より数等うわてのしたたか者で、それゆえに、愛情をさめさせない手腕はなみなみならぬもの、良妻賢母じゃない、悪妻型が多いのですが、本当はとてもしっくりしている夫婦なのです。(以上は田辺聖子「女が愛に生きるとき」-女はみんな才女である-講談社文庫213頁からの引用である。)

稀代の戦略家であったカエサルは、己が貢ぎ物の中に隠れ、それをカエサルへ届けさせ、カエサルの愛を獲得したという逸話の残っているクレオパトラの戦略にはかなわなかった。男とは心地よく女性に支配されるのは厭わないという、まったく単純で愚かな生き物なのかもしれない。


2010年9月23日 (木)

青空文庫

iPhone用に青空文庫の作品をダウンロードした。しばらくはソフトバンクのWi-Fiスポットが無料で利用できるので、マクドナルドでコーヒーといっしょにアップルパイを食べながら、読書に勤しんだ。電子書籍はすこぶる読みやすい。とりあえず読んだのが、有島武郎の「生まれいずる悩み」と夏目漱石の「草枕」の二作品。

「生まれいずる悩み」については、10代に読んだ時の感動が忘れられず、もう一度それに浴してみたいという理由からで、「草枕」については、やはり10代に読んだときに内容がちんぷんかんぷんで、40を過ぎてからなら多少はそれが把握できると考えたのだが、やはり難解で、私って全く成長していないのかなって、少し自己嫌悪に陥ってしまった(笑)。

「生まれいずる悩み」は再度感動した。押さえがたい至高の芸術への成就という感情を抱いた主人公の生き様を通して、「夢」に向かってひたすら奮闘した10代、20代の自分自身が愛おしく思えた。この作品を読み返しながら、奄美の自然を描き続けた「田中一村」の姿がオーバーラップしてくるのも自然なことであろう。来月には鹿児島市立美術館で「田中一村」展が催されるので、必ず行くつもりだ。

「草枕」は難解ではるが、主人公の眼を通した「漱石」の芸術論を拝読しながら、明治の文豪の学問的な素養にいたく感心するのである。私が改めて認識したのは、明治の西洋文化導入の黎明期にあって、漱石のような文人が、かくも完成度の高い西洋の芸術論を展開できたわけを理解できた点ある。

明治以前の教養人には「漢語」の理解があった。そのため「西洋」の導入に無理なく対応できたのだと考えた。「漢語」を理解するということは、すなわち「外国語」を理解するということと同義であり、「漢語の翻訳」という流れが「西洋語の翻訳」においてもよどみなく応用できたのだと感心したのだ。そのあたりの理解で、私も10代よりも少しは成長したと自己採点できるのかも。

「青空文庫」は古典的名著の宝庫であるので、もう少しだけ読書人になるつもりだ。

青空文庫

2010年3月 7日 (日)

地下街の雨

BOOKOFFの、¥105均一の棚からひとつかみの本、それは、宮部みゆきの「地下街の雨」。1994年に出版されたこの短編集は、それぞれの話がとてもチャーミングで、この作家の後の作品への序章的な雰囲気を感じさせる。七番目のおはなし、「さよなら、キリハラさん」が印象に残った。

大杉家は、両親と、弟と、耳の遠い70歳の祖母、そして私の五人家族。祖母は、自分が家族のお荷物的存在であると考え始め、辛い日々を送っていた。そこへある日、父と同じ会社の人間が、「私は元老院直属の音波管理委員会から派遣されたものだ」と称して、「高性能の耳栓」の実験のために、大杉家に上がり込む。この「キリハラ」と名乗る男も、組織に疎外され、人生に疲れ果てていたのだ。疎外された者同士、おばあちゃんと男は、お互いを励まし、支え合うようになる。

ある日、おばあちゃんが失踪。しばらくして、自宅におばあちゃんを保護した交番から電話が入る。おばあちゃんは、自殺を考えていたのだが、キリハラが、それを思いとどまらさせたことが分かった。おばあちゃんは、家族が大切にしていたイヤリングや根つけ、キーホルダー、ボタンを、家族への大切な思い出として、こっそり持ち出していた。

社会の片隅で苦悩する人々の悲哀。なんか、こういうのって切ないなぁ。

2010年2月17日 (水)

田辺聖子の今昔物語

「田辺聖子の今昔物語」のなかで、「捨てられた妻」というはなしがある。仲睦まじい夫婦の間に亀裂が生じた。夫が若い愛人をつくったのである。妻は嫉妬にかられ、結局別れてしまった。しばらくしてその若い愛人が死んだことを知った元妻は、いい気味だと思った。しかし別れた夫が、愛人を失い、悲しみに暮れ、それを機に出家したことを聞くに及び、妻はいよいよ嫉妬の刃をこの男に向けるのだった。

すなわち、別れた夫は意図的に家来に、生け捕った雉子を生きたまま料理せよと命じる。家来が雉子の羽を生きたままむしり取り、それに対して、雉子は血の涙を流して命乞いをする。家来は更に羽をむしり取り、雉子は遂に死んでしまった。その過程をじっくりと観察していた元夫は、厭世観が己の胸の内を覆い、仏門に入ったというのだ。

そんな手順を踏んだ夫を、妻はいよいよ許せなくなり、この男に復讐してやろうと考える。夫に復讐する為に、妻はわざわざ金持ちの男と結婚し、今では乞食の如き体裁をしている男を見返す機会を伺っていた。豪奢な妻の家の前で、お布施を勧進するために、男はお経を唱えていた。それを聞いた妻は、夫に違いないと、座敷に上がらせ、夫と対面した。無論そこが妻の家であることを男は知らない。差し出されたご馳走を黙々と食べる男に、妻は、そんな哀れなお前が見たかった、と罵る。すると男は全く顔色一つ変えず、妻の施しに感謝するのだった。妻は完敗した。完全に打ちのめされた。

そして男は修行のために、中国へ渡るという。妻はこうなると夫が愛おしくてたまらなくなる。夫は中国から帰り、遂には立派な僧となった、という話である。


昨今の厳しいご時世の最中、「物質的な豊かさ」というものは、虚ろで崩れやすい。かたちのあるものは、捉えやすいが、永遠性はない。私もこの年齢になり、普遍性という言葉に恋い焦がれる。より確かな真実に耳を傾けたくなる。仏法の教えは心に優しい。


2010年1月17日 (日)

床下の小人たち

amazonにオーダーしていた本が届いた。"The BORROWERS"というタイトルで、邦題は「床下の小人たち」。今年の夏にスタジオジブリが上映する「借りぐらしのアリエッティ」の原作で、イギリス人のメアリー・ノートンの作品である。

「台所の床下は間借り人達の世界である。ポッドとホミリー、そして娘のアリエッティの3人のクロック一家が住んでいるのだ。彼らのちっぽけな部屋には、マッチ箱で作ったドレッサーがあり、壁に掛けられた切手が、絵画のように飾られている。彼らは必要とあらば、上に住んでいる人間たちから簡単にそれらを拝借するのだ。何と快適な生活であろう。

快適な生活...しかし子供には退屈かも。父親のポッドには上の世界へ行くことが許されている。人間は見つかると危険な、巨大な生き物なのだ。一度見つかったら、間借り人達はもう姿を消してしまう。けれどアリエッティは聞く耳を持たない。上には人間の男の子がいた。アリエッティは男の子に夢中なのだ。(本の裏表紙からの引用)」

「人間たち」は原文では"human beans"となっている。恐らく"human being"からの転用であろう。beanには「つまらないもの」という意味がある。児童文学ということだが、空想世界の描写なので、注意して読まないと、内容が把握できない。クロック家の部屋の様子は、挿絵があるので助かる。英語圏ではかなり有名な作品らしいので、結構あちらでも映画化は話題になるのでは。

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