2017年11月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    

2014年10月28日 (火)

鹿児島市電PART4(発見・鹿児島!)

Tram30
高見馬場交差点 
ここより電車は1系統(写真右側方向)と2系統(写真手前側方向)に分岐する。高見馬場付近は、もともと甲突川にできた中洲が陸地化したときに、小高い丘が残り、高みの前に通りができたので、高見馬場と称するようになった。

Tram31
大久保利通像
高見橋電近くには明治維新最大の功労者の一人、大久保利通の像が建っている。この辺りは江戸時代末期まで高見橋より甲突川上流付近は上加治屋、下流付近は下加治屋と呼ばれ、郷士と呼ばれる下級武士の住居があったところである。

作品名「大久保利通公」は1979年に、鹿児島大学名誉教授で日本芸術院会員の中村晋也氏によって制作された。大久保利通は天保元年(1830)、高麗町に生まれ、生後ほどなく下加治屋に移り住んだ。国父と呼ばれて藩の実権を握った島津久光に取り入れられて、下級武士としては異例の出世を果たし、西郷隆盛とともに、明治維新の中軸的役割を担った。維新後は参議を経て内務卿となり、殖産興業政策を押し進め、又わが国の官僚制度確立に力を注ぎ、近代日本の礎を築いたが、明治11年(1878)、東京紀尾井坂で不平士族により暗殺された。享年49歳。

郷中教育(ごじゅうきょういく)
薩摩藩の郷中において行われた藩士の子弟同士よる自治的な教育制度。島津家中興の祖、島津忠良(日新公)の「いろは歌」の教えを中心にしており、豊臣秀吉による朝鮮出兵の際、留守を預かった大口郷の地頭、新納忠元が「二才咄格式定目」に武士の心得をまとめ、郷中教育に発展していった。

城下の36の郷中において子弟たちは、その年齢によって二才(14、5才から24、5才)と稚児(6、7才から14、5才)に分けられ、年長の二才が稚児を教育し、面倒をみた。郷中教育には教師はおらず、厳格に決められた日課に従い、学問を学び、武道の稽古に励んだ。特に郷中教育が盛んだった加治屋町からは西郷隆盛、大久保利通、大山巌、山本権兵衛、東郷平八郎ら幕末から明治維新、日清戦争、日露戦争にかけて活躍した、優れた人材を多く輩出した。イギリス人ベーデン・パウエルが、イギリスにおいて1908年にボーイスカウトの制度を起こしたとき、薩摩の郷中教育の持つ青少年の自立的な相互教育の精神を参考にしたと伝えられている。

Tram38
高見橋電停
緑化された軌道を進む新型車両7000形。緑化事業は平成18年(2006)より始まった。

Tram34
西鹿児島駅
懐かしい三角屋根の西駅(通称)の姿だ。第二次世界大戦で駅舎が消失したため、戦後に建替えられたもの。九州新幹線整備事業の一環として、平成8年に現在のものに再び建替えられた。

Tram33
九州新幹線の開業に合わせて、地下道を建設。新しい駅ビルはショッピングやシネコンでの映画が楽しめる複合施設になった。

Tram35
旧西鹿児島駅前電停 
交通量の多い西鹿児島駅前の県道の真ん中に位置していたので、駅への往来は時間を要した。同じく新幹線開業に合わせて、軌道が鹿児島中央駅寄りに変更された。

Tram32
南国日本生命ビル
西鹿児島駅周辺の象徴的存在であった「日生ビル」も、取り壊され、新たに「鹿児島中央ターミナルビル」に生まれ変わった。

Tram37
鹿児島中央駅前電停(1)
電停並びに軌道が中央駅寄りに変更されたので、路面電車の乗降、そして鹿児島中央駅へのアクセスが楽になった。

Tram36
鹿児島中央駅前電停(2)

西鹿児島駅は地元の人間からは「にしえき」と、愛着をもって呼ばれていた。学生時代を東京で過ごした私は、帰省には専らJRを利用した。陽も昇らぬうちに新幹線で東京駅を出発し、博多で「有明」に乗換え、西駅に着いた頃は夜も8時をまわっていた。半日以上の長旅に疲れはしたが、西駅の三角屋根の駅舎を見た時は、ほっとした。昭和49年8月、鹿児島実業が夏の甲子園に県勢としては初のベスト4入りを果たし、鹿児島に凱旋したとき、市民が出迎えたのも、この西駅だったと記憶している。

この駅には想い出が多すぎる。三角屋根の駅舎を失い、更に「にしえき」という名前まで消え去ろうとしている今、寂しさで胸が一杯になってしまう。恐らく我々地元民以上に、県外で活躍されておられる県出身者の失望は想像に難くない。鹿児島をひとたび離れると、人は故郷はずっとそのままでいて欲しいと思うものだ。それとは裏腹に、地元の人間は郷土の発展を常に願って止まない。この気持ちの行き違いが、それぞれの西駅の在り方にも反映していると、最近考えるようになった。今となっては写真の上でしか見ることのできない、かつての西駅の姿を記憶にとどめ、旧き良き時代を回想しつつ、九州新幹線開通と同時に、鹿児島中央駅としてリスタートしたこの駅の発展にも期待したい。

Tram39
神田電停 
しんでんと読む。この地域に荒田八幡の神撰田があったことから神田となった。他に一之宮神社の神田であったとする説、若宮神社のために島津家が一五石の田を献じたことに由来するとの説などがある。尚、この502号も平成17年に廃車となった。

MEMO
大正元年(1912)12月、鹿児島電気軌道株式会社が武之橋~谷山間6.4kmで路面電車の運行を開始した。全国で28番目のことであった。以来、90年以上にわたって路面電車は鹿児島市民の身近な足として市民生活を支えてきた。自動車の普及によって一時期、利用が低迷したが、近年は低公害かつ環境に優しい乗物として見直されつつあり、再び巷間の話題を集めることとなった。

平成14年には超低床電車が導入され、バリアフリー社会実現に向けた具体的な取組みが注目されている。更に平成18年より軌道の緑化事業が始まり、ヒートアイランド現象による温暖化の低減、並びに路面電車による騒音の歯止め、そして美観の向上が図られている。

(参考資料)
鹿児島県の歴史 原口泉 永山修一 日隈正守 松尾千歳 皆村武一 山川出版社(1999)
薩摩の豪商たち 高向嘉昭 春苑堂出版(1996)
鹿児島の鉄道・百年 久木田末夫 春苑堂出版(2000)
近代化と鹿児島の建造物 田良島昭 春苑堂出版(1999)
ふる地図に見るかごしまの町 豊増哲雄 春苑堂出版(1996)
全国懐かしの路面電車 (編)山田京一、小野打真 新人物往来社(1998) 
路面電車の基礎知識 谷一巳、西村慶明、水野良太郎 イカロス出版(1999) 
日本の路面電車 原口隆行 JTBキャンブックス(1999)

鹿児島市電PART1(発見・鹿児島!)
鹿児島市電PART2(発見・鹿児島!)
鹿児島市電PART3(発見・鹿児島!)

2014年10月21日 (火)

鹿児島市電PART3(発見・鹿児島!)

Tram20
新川4号踏切道(涙橋と南鹿児島駅前の間)

Tram21
南鹿児島駅前電停 
JR指宿枕崎線の南鹿児島駅に隣接している。

Tram24
二軒茶屋~宇宿一丁目(1991.8撮影)

Tram22
宇宿一丁目電停 
谷山線の魅力は、鄙びたローカル線の雰囲気が感じ取られるところだろうか。

Tram25
笹貫~上塩屋(1991.8撮影)

Tram29
谷山駅(1) 
1系統の終着駅となる。

Tram28
谷山駅(2)

Tram27

谷山駅(3) 
鹿児島は焼酎の生産量が日本一で、代表的な産業であるためか、電車のボディーの全面広告も酒造メーカーによるものが多い。

鹿児島市電PART1(発見・鹿児島!)
鹿児島市電PART2(発見・鹿児島!)
鹿児島市電PART4(発見・鹿児島!)


2014年10月16日 (木)

鹿児島市電PART2(発見・鹿児島!)

Tram10
天文館通電停
この辺りは「天文館」と呼ばれており、鹿児島県下随一の繁華街である。名称の由来は、薩摩藩第25代藩主、島津重豪が当地に天体観測所明時館(別名天文館)を設けたことによる。

Tram11
高見馬場電停

Tram12
市立病院前電停

Tram13
交通局前電停

Tram14
鹿児島市交通局車庫
交通局玄関左手には市電センターポール事業の竣工碑が建っている。鹿児島市電のセンターポール化工事は昭和62年から平成3年にわたって行われた。その事業延長は8.75kmに及ぶ。それまでのサイドポール式は、架線とそれを支えるスパンワイヤーが道路上に蜘蛛の巣のように張り巡らされ、お世辞にも美しい景観とは言えなかった。近年、都市景観の改善にも注意が注がれ、歩道上の電線、電話線の地中への埋没化と同時に、センターポール化も進められた結果、道路上の空間にゆとりが生まれた。

Tram15
郡元電停と連接式超低床電車7000形
平成19年(2007)の4月26日より新型車両7000形が営業運転を開始した。連接式超低床電車(5車体3台車)で、定員は78人(座席24人)。自重25.5t、長さ 18,000mm、幅2,450mm、高さ3,750mm(パンタ折畳時)、最高運転速度40km/hとなっている。

鹿児島市は2007年3月末より市電軌道敷緑化工事を開始しており、軌道の改良と相まって、新型のLRVはヨーロッパのそれに更に一歩近付いた感がある。

Tram16
郡元電停(1)
2系統(鹿児島中央駅前経由)の電車はここが終点。谷山方面へは1系統(交通局前経由)電車への乗換となる。

Tram17
郡元電停(2)

Tram18
涙橋電停(1)
軌道上の架線がセンターポール化されたため、空間の広がりがとても美しい。ここを過ぎると路面電車は、いよいよ独立軌道の谷山線に乗り入れる。

Tram19
涙橋電停(2)

鹿児島市電PART1(発見・鹿児島!)
鹿児島市電PART3(発見・鹿児島!)
鹿児島市電PART4(発見・鹿児島!)

2014年10月13日 (月)

鹿児島市電PART1(発見・鹿児島!)

Mapsiden
鹿児島市電路線図

Tram1
鹿児島駅前を発車する2120形(旧鶴岡号)

Tram2
鹿児島駅前にて 
昔の配色が平成13年(2001)に復活した。尚、502及び、503は平成17年(2005)に廃車となった。

Tram3
800形(1991.8撮影)

Tram4
超低床電車1000形(愛称ユートラム)は平成14年(2002)1月にデビュー、超低床電車としては熊本、広島に次いで国内三番目のお目見得となる。全長14m、幅2.45m、高さ3.6m、総重量19tで、ホームと車両との段差はわずか5cm。近年の公共施設のバリアフリー化に対応したもので、清涼感溢れるレモンイエローのボディは南国鹿児島のイメージにとても馴染む。

1000形ユートラムは、国産初の超低床電車であり、先進的な電動バネブレーキを採用し、またそのような車両を一度に3両導入することにより、実用的な意図が見える点が評価され、鉄道友の会より2003年度のローレル賞を授与された。

(沿革)
鹿児島市電は大正元年12月1日に鹿児島電気軌道として開業。昭和3年7月1日に鹿児島市へ譲渡。昭和36年伊敷線開通によって営業キロ数は19.4kmまで延長される。昭和42年ワンマンカー化、昭和44年均一運賃制の導入、昭和50年乗換券導入、と常に経営の合理化とサービスの向上をはかってきたが、モータリゼーションの急激な変容に追従することは難しく、昭和60年上町線、伊敷線が廃止された。現在の営業キロ数は13.145km。

鹿児島駅はその名からも推察できるように、現在の鹿児島本線ができる以前の鹿児島線(現在の日豊本線鹿児島-隼人間、肥薩線)の始発駅であった。鹿児島駅周辺は古くから上町(かんまち)と呼ばれる地域である。鎌倉時代、現在の宮崎県都城市にあった島津荘の守護に補任された惟宗忠久は、荘園の名をそのまま名字にした。島津氏の誕生である。もともと島津氏は3代久経の頃までは鎌倉に在住していたが、13世紀の蒙古襲来時に、幕府の命により薩摩に下向してきた。その後、守護から戦国大名として南九州全体に支配地域を広げ、天文19年(1550)、15代貴久の頃に現在の鹿児島市北部に入城したと考えられている。上町と呼ばれる北部から、城下は南へ広がり、18代家久が鶴丸城を築いた。更に現在の街の賑わいは天文館や西鹿児島駅周辺へと南下していったが、鹿児島発祥の地は北部の上町にあったとも言えるのである。

Tram6
市役所前電停 
鹿児島市市役所庁舎は昭和12年に完成。設計は大蔵省営繕管財局工務部で、国会議事堂を設計した部局としても知られている。

Tram7
朝日通電停 
左手のレトロな建物は地元のデパート、山形屋である。山形屋は出羽(現在の山形県)出身の紅花商人、初代源衛門が祖とされている。島津家25代藩主、重豪は当時、保守的、閉鎖的な薩摩の気風を嫌い、国を開放することにより、他国人の入国を歓迎した。このとき薩摩入りし、呉服屋を営んだのが初代源衛門である。そして3代目善兵衛の頃から、藩への功績により、岩元姓を名乗ることが許された。明治に入り、5代目、岩元信兵衛の時代になると山形屋は大きく発展し、今日に至っている。

Tram8
いづろ通電停といづろ交差点

Tram9
いづろと石灯籠
いづろ通電停を過ぎると、電車はいづろ交差点を大きく右折して、天文館地区に入る。いづろ交差点には立派な石灯籠がある。この石灯籠(いしどうろう)が訛って、「いづろ」になったと言われている。いづろ通の名の由来は海辺の屋久島岸岐にあった灯籠を移したためとも、又ここより松原神社まで灯籠が並んでいたためとも伝えられている。

鹿児島市電PART2(発見・鹿児島!)
鹿児島市電PART3(発見・鹿児島!)
鹿児島市電PART4(発見・鹿児島!)


2014年9月 9日 (火)

桜島PART3(発見・鹿児島!)

Sakurajima21
古里温泉にある林芙美子文学碑(1)

Sakurajima20
林芙美子文学碑(2)

Sakurajima22
林芙美子文学碑(3)

「花のいのちはみじかくて苦しきことのみ多かりき」は林芙美子の言葉としてあまりにも有名だが、その出典ははっきりとしていないようだ。「放浪記」から引用されたものでもなく、ただ「花のいのち-の言葉が人口に膾炙するにあたっては、芙美子自身の色紙の存在がある。下線部は林芙美子花のいのちの謎 宮田俊行 高城書房9頁からの引用。」ということらしい。また「芙美子の女性観では、一度つまずいたら、坂をころびおちるように、没落の歩く弱い女ばかり多い。(中略)自分の人生を悔いなく生きていきなさいというエールを世の女性たち全体に送っているのである。下線部は林芙美子花のいのちの謎 宮田俊行 高城書房212頁~213頁からの引用。」という意図があるようだ。

林芙美子は明治36年(1903)12月31日に生れた。父は行商人の宮田麻太郎、母は林キク。キクが鹿児島の出身であったため、本籍地は東桜島村古里になっている。麻太郎とキクは入籍しておらず、その後二人は別れ、キクは同じく行商人の沢井喜三郎と結婚。芙美子ともども各地を転々とすることになる。一家の商売は上手くいかず、芙美子は一時期、鹿児島の祖母のもとに預けられた。その後、一家は尾道に移住し、芙美子は懇意にしてくれた師に恵まれ、尾道高等女学校に進学し、この時、文学的才能を開花させることとなった。

「放浪記」の冒頭部分に次のように記されている。「私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。父は四国の伊予の人間で、太物の行商人であった。母は、九州の桜島の温泉宿の娘である。母は他国者と一緒になったと云うので、鹿児島を追放されて父と落ちつき場所を求めたところは、山口県の下関と云う処であった。下線部は林芙美子 放浪記 新潮文庫8頁からの引用。」

作家の向田邦子が、林芙美子について次のようなコメントを残している。「放浪記の林芙美子女史は、電車に乗ると、まわりを見廻して、いまこの瞬間事故にあったら、どの男の手を取って逃げようかと空想したそうだが、甲斐性も度胸もない私は、ひとさまの懐具合を想像したのだった。下線部は向田邦子 眠る盃 講談社文庫87頁からの引用。」二人の恋愛観、人生観の特徴が表現されているようで、興味深い。

Sakurajima23
牛根大橋
2008年3月に開通。全長381メートルで、上方に反ったアーチ型の構造で、バランスドアーチという形式で呼ばれている。国道220号の垂水市牛根麓地区は、大雨等による土砂災害の恐れがある場合、通行止めとなるため、それを回避するためのバイパスとして牛根麓~桜島口間の2.7kmが整備され、牛根大橋は1999年度に工事を着手。約9年の工事期間と約220億円を費やして完成した。

Sakurajima26
噴火活動が再び活発になってきた桜島昭和火口 
昭和火口は2009年1月より噴火活動が顕著になり、更に2月に入って噴火が頻繁になったことから、気象庁は2月2日、噴火警戒レベルを2(火口周辺規制)から3(入山規制)に引き上げた。その後活動が沈静化したため、一旦は噴火警戒レベルを3から2に引き下げたが、2月28日以降、再び爆発的噴火が多発し、3月2日に噴火警戒レベルは3に戻された。そして4月9日午後3時半ごろ、昭和火口が噴火し、噴煙は高度4000メートルに達し、鹿児島市街地に9年ぶりとなる多量の火山灰が降り注いだ。

Sakurajima29
黒神埋没鳥居
大正3年の大爆発による火山灰のため、鳥居が、その上部を残して、殆ど埋まってしまった。地中に埋もれたままの状態で保存されており、爆発の凄まじさを現在に暗黙裏に伝えている。

Sakurajima27
桜島の至る所に火山の爆発を想定した退避壕が設けられている。

Sakurajima30
小学校の校舎の背後に慄然とそびえ立つ桜島。そこには潜在的な危険と隣り合わせの日常がある。

結びとして
この「桜島」の特集を「発見・鹿児島!」のサイトにアップするため、今週末に記事をタイプしていた。一昨日、その桜島が9年ぶりに規模の大きい噴火をした。噴煙は高度4000メートルに達し、風向きの影響で、鹿児島市内は一面の火山灰に見舞われた。最近活動著しい昭和火口からの噴火であり、久しく桜島の活動による被害から遠のいていた鹿児島の住民にも、以前の活発だったころの桜島の火山活動の記憶が甦ったに違いない。

ところで、桜島の東桜島小学校には、大正3年(1914)の大爆発の惨劇を教訓にした爆発記念碑がある。そこには「本島の爆発は古来歴史に照らし後日またまた免れざるは必然のことなるべし。住民は理論に信頼せず、異変を認知する時は未前に避難の用意もっとも肝要とし、平素勤倹産を治め、何時変災にあうも路途に迷はざる覚悟なかるべからず。」と記されている。これは当時の鹿児島測候所が大爆発の発生を予知できず、避難勧告を出さなかったため、測候所の「爆発はない」の予想を信頼して村の責任者がそのまま居残り、そのため犠牲者を出してしまったことに鑑み、将来への教訓を唱ったものとなっている。

4月9日の噴火は、久方ぶりに鹿児島市街地に大量の火山灰をまき散らしたのだが、この9年間のインターバルというものは、桜島の気の遠くなるような生命の歴史からすると、ほんの瞬きほどの時間に違いない。大正の爆発から100年近く経つが、彼の未曾有の大惨事の再来を否定する経験的根拠は存在しない。したがって我々は理論に全幅の信頼を寄せることなく、過去の教訓を踏まえて、常にこの桜島と向き合わなければならない、そう考えた次第である。尚、大正3年の桜島大爆発については、「桜島噴火記 住民ハ理論ニ信頼セズ・・・ 柳川喜郎 日本放送協会」が、著者のジャーナリストの立場から、詳細に論じているので、一読をお勧めする。

それでも桜島には魅力的な希有の財産が豊富にある。これらの貴重な財宝を慈しみながらも、同時に危険な自然災害に対する配慮は忘れない気概が、それはかなりの忍耐をともなうけれど、必要であろう。なぜなら桜島は端的で分かりやすい鹿児島を表現する象徴であるからだ。

2009年4月15日

(参考資料)
鹿児島県の歴史 原口泉 永山修一 日隈正守 松尾千歳 皆村武一 山川出版社(1999)
鹿児島県の歴史散歩 鹿児島県高等学校歴史部会 山川出版社(1992)
桜島大噴火 橋村健一 春苑堂出版(1994)
桜島噴火記 住民ハ理論ニ信頼セズ・・・ 柳川喜郎 日本放送協会(1984)
林芙美子「花のいのち」の謎 宮田俊行 高城書房(2005) 
放浪記 林芙美子 新潮文庫(1979)
梅崎春生 桜島 講談社文芸文庫(1989)
向田邦子 眠る盃 講談社文庫(1982)

桜島PART1(発見・鹿児島!)
桜島PART2(発見・鹿児島!)


桜島PART2(発見・鹿児島!)

Sakurajima9
桜島小みかん 
直径は僅か5センチほどで、重さは30~50gと小粒である。しかしその分甘さが凝縮されており、糖度は13度以上になるそうだ。桜島の特産品で、世界一小さいミカンとしてギネスブックで認定された。12月頃に収穫される。

Sakurajima12
桜島大根 
同じく桜島の特産品で、平均的な大きさは直系40~50cm、重さは15~20kgになるが、中には30~40kgになるものもある。こちらはギネスブックに認定された世界で一番大きな大根である。12月~2月頃収穫される。

Sakurajima14
「叫びの肖像」 
2004年8月21日の「長渕剛桜島オールナイトコンサート」を記念して建立された。当日は真夏の猛暑にもかかわらず、全国より7万5千人が集い、夜通しの熱いライブパフォーマンスが展開された。

Sakurajima15
「叫びの肖像」の下に設置されたプレート

Sakurajima16
神瀬(かんぜ) 
干潮時になると、写真のように浅瀬が海上に出現する。「叫びの肖像」のある場所から海へ視線を移すと眼にとまった。

2004年の長渕剛の「桜島オールナイトコンサート」のことは良く憶えている。地元のホテルなどの宿泊施設は、コンサート観覧者の予約で、どこも一杯で、鹿児島はちょっとした「長渕特需」で活況を呈していた。遠路はるばる九州の最南端の鹿児島まで足を運ばれたファンの熱意には敬服するものがあるし、またコンサートの実現を成功させた長渕剛の人間的魅力にも脱帽した。試しに桜島フェリー乗り場より、車のメーターをリセットして、会場までの距離を測ってみた。およそ2.5km。あの真夏の炎天下にフェリー乗り場より会場まで、殆どのファンが徒歩で駆けつけたのである。郷土のヒーローに最敬礼!

Sakurajima17
烏島展望所 
大正3年の大噴火により、桜島の溶岩流が沖合いの烏島まで及び、島全体を呑み込んでしまった。今は全くその痕跡を知る由もなく、わずかにこの記念碑が歴史的な事実を物語っている。

Sakurajima19
深くえぐられた山襞 
絶えず降り積もる火山灰が、この標高1100mほどの山の頂上部への生命の進出を頑なに拒んでいる。(古里温泉にて)

Sakurajima18
噴煙を噴き上げる昭和火口(有村溶岩展望所にて) 
昨年(2008)の暮れより昭和火口からの噴火が活発になってきた。垂水方面に向かう途中、噴煙が気流にのって大隅半島へ流れていくのを目撃。

「それは、青いものが一本もない、代赭色の巨大な土塊の堆積であった。赤く焼けた溶岩の、不気味なほど莫大なつみ重なりであった。もはや之は山というものではなかった。双眼鏡のレンズのせいか、岩肌の陰影がどぎつく浮き、非常の強さで私の眼を圧迫した。憑かれたように私はそれに見入っていた。下線部は梅崎春生 桜島(講談社文芸文庫)66頁からの引用。」薩摩半島側の鹿児島市街地から眺め観る桜島は、どっしりと鹿児島湾の真ん中に鎮座し、悠然とその威容を誇るのだが、ひとたび爆発が始まると、人間の手に負えない大自然の猛威を残酷なまでに振い、致命的な災害をもたらす。大正3年の大爆発では、農地の多くが甚大な被害を受け、農業を諦め島から移住する人々が後を絶たず、爆発の前は人口2万人を数えたが、残った住民はその3分の1に過ぎなかった。

桜島PART1(発見・鹿児島!)
桜島PART3(発見・鹿児島!)

桜島PART1(発見・鹿児島!)

Mapsakurajima
桜島ルートマップ

Sakurajima1
城山展望台(鹿児島市)にて桜島を眺望する。

城山は西南戦争における西郷隆盛終焉の地である。この標高100Mあまりの場所から眺める桜島の雄姿は絶景である。幕末、福岡藩出身の攘夷派の志士、平野国臣は、「わが胸の燃ゆる思いにくらぶれば煙はうすし桜島山」と詠んだ。また作家の向田邦子は、「無いものねだりのわが鹿児島感傷旅行の中で、結局変らないものは、人。そして生きて火を吐く桜島であった。下線部は向田邦子、眠る盃所収、鹿児島感傷旅行(講談社文庫)156頁からの引用。」と語った。何れも桜島の雄大さ、普遍性を表現していると考える。

桜島の名前の由来
桜島という名前の起源は諸説ある。海面に桜の花が浮かんで島となったという説、大隅守桜島忠信に由来する説、木花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)の名前から来ているという説などである。

桜島、大爆発の歴史
記録に残るものとしては、文明8年(1476)、安永8年(1779)、大正3年(1914)、昭和21年(1946)のそれぞれの大爆発が有名であるが、大正と昭和の爆発は写真などの歴史的資料も多く存在し、大自然の脅威を今日に伝えている。

大正3年の大爆発は、その3日ほど前から地震がおこり、前日には地震の回数が70~80回にも及んだ。1月12日、大爆発は始まり、黒い噴煙が高度1万メートル以上まで上がった。火口から流れ出た溶岩が大地を埋めつくし、桜島沖合いの烏島は溶岩に呑み込まれ完全に消滅してしまった。桜島と大隅半島を隔てた瀬戸海峡は大量の溶岩の流出によって陸続きとなった。昭和21年の爆発では、溶岩流は黒神、有村地区を襲い、黒神海岸沖の浜島を呑み込んでしまった。

Sakurajima2
桜島ビジターセンター 
袴腰の桜島フェリーターミナルから程近いところにある。200インチのハイビジョンによる桜島の映像をはじめ、桜島の爆発と歴史、桜島の陸と海の生態系などを写真や模型で紹介している。入場は無料。

Sakurajima3
梅崎春生文学碑 
2006年にビジターセンターに隣接する溶岩なぎさ公園内に建立された。「戦後文学の旗手」と評される梅崎春生の小説「桜島」は、作者自身の海軍での経験を踏まえ、主人公、村上兵曹が、戦争下において「死」というものに弄ばれながら、人間性の尊厳の否定と対峙する、極めて力強い作品となっている。

「此処は少なくとも第一線だ。毎日グラマンが飛んで来る。どうせ此処で、皆死ぬんだ。死ぬまで、人から嗤われたり後指をさされたりするようなことをするな。下線部は梅崎春生 桜島(講談社文芸文庫)61頁からの引用。」これが桜島の通信隊での上官である吉良兵曹長が、最初に村上に言い放った言葉であった。吉良を「変質者」と嫌う村上にとって、アメリカとの戦いであるこの戦争は、常軌を逸した軍紀という名のもとの壮絶な内なる戦いであった。

絶望的ともいえる「生」への執着は、真夏の陽射しの下の玉音放送によって決定的な結末を迎える。戦争は終わった。「崖の上に、落日に染められた桜島岳があった。私が歩くに従って、樹々に見隠れした、赤と青との濃淡に染められた山肌は、天上の美しさであった。下線部は梅崎春生 桜島(講談社文芸文庫)122頁からの引用。」

Sakurajima5
湯之平展望所から仰ぎ観る桜島の威容 
桜島山頂までの距離感に、思わず息をのむ。この瞬間に火山が爆発したら?

Sakurajima6
沖小島 
文久3年(1863)の薩英戦争の際には、臨時の砲台が設けられた。また桜島の燃崎との間に水雷が敷設された。

Sakurajima7
湯之平展望所より杳然と鹿児島市街地を望む。
写真中央部の桜島フェリーは鹿児島と桜島の間を15分で結ぶ。24時間営業である。

湯之平展望所から眼前に桜島が聳立する様はまさに壮観である。日頃対岸の鹿児島市側から眺める桜島は、それなりに距離感があるためだろうか、あるいは日常的な風景として捉えているからだろうか、圧倒的な迫力というものを、噴火した場合を除いて、あまり感じない。小学校の遠足でこの場所を訪れたか、記憶の方ははっきりしないのだが、展望所より真近にそびえる桜島は、全くの活火山であるという印象がともなって、やはり畏怖感、否、剣呑たる緊張感を帯びていた。特に昨年末(2008)より昭和火口を中心に再び火山活動が活発になってきたため、この場に長居したいという欲求はなかった。それでも骨大にそびえる桜島の威容と、鹿児島市街地の俯瞰図を一同に体験できるので、是非とも足を運んでもらいたい。

桜島PART2(発見・鹿児島!)
桜島PART3(発見・鹿児島!)


2014年8月22日 (金)

在りし日の潮見橋

Shiomi1

Shiomi2

Shiomi3

Shiomi4
2005年10月撮影

鹿児島市南部の谷山地区、和田川にかかる潮見橋は1890(明治23)年に造られた。長さが32メートル、幅は4メートルあり、市内でただ一つの3連アーチの石橋である。しかしながら完成から100年以上経っており、橋の老朽化は避けられず、「浸水などから市民の生命や財産を守る責務があり、架け替えが必要」と、鹿児島市は橋の撤去と架け替えを予定しており、年内に着工するらしい。

私も現地に足を運んでみた。率直な感想であるが、宅地化されたこの一画にぽつりと「明治」の建造物が存在するといったおもむきである。恐らく竣工当時、周りは田園風景が広がるのどかな佇まいであったに違いない。この時代のことだから現在のように自動車が頻繁に往来することなど想定されておらず、また和田川の環境変化によって、本来は棲息するはずのない人為的に放たれた種類の魚が目に留まるといったことなど、その当時の人々が予想したであろうか。

このまま現状保存を続けるにしても未来永劫にわたってこの橋を存在せしめるのは厳しいだろう。状況が許す限りこの橋を竣工当時の環境に近い田園風景が良く似合う場所に移設してもらいたいと考えるのだが、それではあまりにも懐古趣味が過ぎるだろうか?

※その後、潮見橋は架け替えられることになり、2008年の2月6日に新しい橋が竣工した。

潮見橋のその後(2)
潮見橋のその後

2014年8月 2日 (土)

照葉樹の森PART2(発見・鹿児島!)

Laurel23
足下にはヤブツバキの花が。

Laurel11_2
自然石展望台より稲尾岳方向を望む。覆い被さるように続く照葉樹林帯を進むので、すっきりとした展望はここでしか味わえない。

Laurel15_2
モミ、アカガシの巨木群 
このあたりは台風の常襲地帯である。立枯れた喬木が、この本土最南端の地の気候のきびしさを物語る。

Laurel18
一時間ほどで三角点に到着。周囲は潅木に囲まれており、360°のパノラマというわけにはいかない。

清流の水源を過ぎるとやや傾斜がきつくなる。亜高木層にさしかかったとみえて、足下にヤブツバキの花弁が散乱しているのが目につく。それにしても常緑の世界に迷い込んだような感触は新鮮だ。とりあえず自然石展望台にて小休止。春霞のため、視界はやや難があるが、それでもこの西口コースは山歩きの楽しみがコンパクトに集約されているので、初めての者でもその醍醐味を充分に堪能できる。道標は最小限度に押さえられ、景観に配慮されている。10分ほど休憩したのち、再び登攀を始める。三角点を過ぎたあたりから更にアップダウンが続く。時間的に余裕があるので、無理をせず、しばらく美しい春の花々の饗宴を楽しむことにした。

Laurel10
ヤブツバキ
ツバキ科の常緑高木。照葉樹葉林を代表する樹種のひとつ。野生種であるヤブツバキは高さが15mにもなるものがある。

Laurel9
ミツバツツジ 
ツツジ科の落葉低木。花は紅紫色で、花びらはロウト形で五つ。枝先に三枚葉が付く。

Laurel8
ミヤマシキミ 
ミカン科の常緑低木。本州以西に分布。花は白色で花びらは4枚。10月に美しい紅色の実をつける。尚、実には毒がある。

Laurel19
モミノキ
マツ科の常緑高木。その凛然としたすがたから、クリスマスツリーに用いられることでも有名。日本では秋田県から屋久島にかけて自生する。

Laurel14
立ち枯れた巨木
かたちあるもの全て、森羅万象である。この木さえも存在する必然性がある。

モミ、アカガシの巨木群 
薄暗い山道を更に進むと、やがて太い幹まわりの巨木が徐々に現われてきた。永遠の生命力を誇示するかのごとく、悠然と屹立している様は、周囲の静寂とあいまって、神々しくもあり、しばらく何もせず路傍にたたずんでみた。下界においては、時に凄惨なドラマが絶えることなく繰り返される。しかし、ここにあってはただ粛々と時だけが刻み続けられる。そこにはあたかも地上の事象を、宇宙の営みの僅かな一片として捉えるかのような壮大さがある。

照葉樹林について 
東アジアに多く見られる常緑広葉樹林を特に指して呼ぶ。その範囲はヒマラヤから中国南部を経て、台湾、更には日本へと広がりをみせる。湿度の高い暖温帯に分布する照葉樹は非常に寒さに弱く、年平均気温が12度を下回るところでは生きて行けない。それ故、寒さに対抗するため、葉は小形で厚く、表面が陽に当たって光るところからその名がついた。高木層にはカシ、シイ、タブ、クス、モミなど、亜高木層にはモッコク、ヤマモモ、ヤブツバキ、そしてサザンカ、サカキ、ヤブニッケイなどが連なるように分布する。

照葉樹文化 
東アジアの照葉樹林帯と、そこに定住する民族が共有する様々な文化的特色を意味する。大陸伝来の文化のうち、かなりのものが照葉樹文化に属するとされている。例えば、水田稲作農業、お茶の栽培、うるしなどがそれにあたる。

Laurel17

Laurel20
ゴールの稲尾神社 

モミ、アカガシの巨木群を通り抜けると、ゴールは近い。すでに三角点を通過しているので稲尾神社は山頂というわけではないが、西口コースの終点となっている。写真を撮りながらの、ゆっくりとしたトレッキングであったが、それでもお昼前にはたどり着くことができた。このあと昼食をはさんで30分ほど休憩をとり、帰路につく。ビジターセンターに戻って、今日一日の復習をするのも良いだろう。

2001年4月撮影

参考資料
森林の百科事典 (編)太田猛彦、北村昌美、熊崎実、鈴木和夫、須藤彰司、只木良也、藤森隆郎 丸善(1996) 
ヤマケイポケットガイド13 野山の樹木  姉崎一馬 山と渓谷社(2000)

アクセス
鹿児島市内からは桜島フェリーか垂水フェリーを利用して国道269を南下し、根占(現南大隅町)で国道448に進路変更。田代町(現錦江町)内に入ると案内板があらわれるので、それに従ってすすむ。鹿屋方面からは国道68を南下し、同じく田代町(現錦江町)内に入った後は案内板に沿ってすすむ。
照葉樹の森公式サイト

照葉樹の森PART1(発見・鹿児島!)

照葉樹の森PART1(発見・鹿児島!)

Mapinao
稲尾岳登山西口コースマップ

Laurel1
照葉樹の森入口ゲート 
稲尾岳ビジターセンターに通じる林道はアスファルト舗装を施していない。日光による路面の照返しが生態系に悪影響を及ぼすことへの配慮からである。

「照葉樹の森」は鹿児島県肝属郡田代町(現錦江町)に2000年4月28日オープン。大隅半島南端の稲尾岳、木場岳を中心としたこの一帯は宮崎県の綾の森と並んで、西日本有数の照葉樹林帯を形成している。1,400haにも及ぶ森林にはタブ、カシ、イス、モミなどの照葉樹が原生林として繁茂し、有史以前より現在に至っている。

この森は1.400haもの広大な区域が親照葉樹林ゾーンと保全学術ゾーンに分かれている。保全学術利用ゾーンには滝巡りコース、西口コース、北口コースの3つがあり、今回はアップダウンに富み、変化のある景観が楽しめる西口コースを選んでみた。パンフレットによれば、このコースは距離にして3.3km、所要時間は150分を要するとされている。朝9時前後に出発してもお昼前には終点の稲尾神社まで到着することが可能である。

Laurel2
稲尾岳ビジターセンター  ロッジ風の瀟洒な建物である。

Laurel24
ビジターセンターの内部の様子

昨年の暮れにビジターセンターを一度訪ねてみた。下界の景色に目を奪われながら、ふと気付いたことがあった。電線が見えないのである。センターの方に、地中に埋没させているのか、尋ねてみた。環境保全のため太陽電池と風力発電を利用しているとのことである。ちなみにここの電話は携帯電話用の番号で始まっていることを思い出した。最近、市街地でも屋根にソーラーパネルを敷いている住宅を見かけることが増えてきたが、まだまだコスト高で一般的ではない。それに比べて、ここは山頂の山小屋と同程度の環境なので、エコエネルギーの方がどちらかというと現実的なのかもしれない。それでも、ここまで徹底していると、真剣さが伝わってきて妙に嬉しいものである。館内では森の生命の生態系を写真や絵を使って丁寧にパネルにて紹介している。勿論タイムリーな情報は、ここでいくらでも得られる。登頂前の予習を強くお勧めする。予備知識が森の探索の楽しみを何倍にもしてくれるはずである。

Laurel3

Laurel4
9時過ぎにビジターセンターを出発し、清流に沿って登りはじめると、早速この光景に遭遇することとなる。かさばるように続く木立、岩を覆い尽くさんとする苔のみどりが、しばらく続く。

Laurel7
アセビ(馬酔木)
ツツジ科の常緑低木。葉に毒素があり、馬が食べると麻痺するというので、この名がついた。

馬酔木は万葉集に度々登場する植物のひとつである。「三諸は人の守る山、本辺は馬酔木花咲き、末辺は椿花咲く、うらぐはし山そ子守る山(作者不明)」意味は、奈良の三輪山は人々が大切にする山で、麓では馬酔木の花が咲き、山の上では椿が咲く麗しい山で、子守りをするような(そういった大事な)山です、となる。 八世紀後半に成立したといわれる、この歌集のよみ人の清新な心情に共感できるのは、まさに至福という他ない。

Laurel5
岩根から水が滲出しているのがわかる。清流の水源である。

Laurel6
誘導ナンバーを目印に登ることができる。

Laurel21
初心者への配慮が伝わってくる。

照葉樹の森PART2(発見・鹿児島!)


より以前の記事一覧

無料ブログはココログ